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その後、[[1986年]]、[[1992年]]、[[1998年]]、[[2004年]]に再選された。5期30年を勤め上げ、ペンシルベニア州選出の上院議員としては最長在任記録である。スペクターは、党内の穏健派を代表する上院議員の一人である。そのため、急進派の一部は彼にRINO(Republican In Name Only, 名ばかりの共和党員の意)とのレッテルを貼る。その一例として、彼は合法的な[[妊娠中絶]]を容認するいわゆるプロ・チョイス派である。さらに、1999年には[[ビル・クリントン|クリントン]]大統領の弾劾反対を表明し、弾劾を急ぐ党の執行部を非難した。1996年には大統領を目指し共和党予備選に出馬したが、早い段階で脱落した。
 
スペクターは自身も朝鮮戦争に従軍した[[退役軍人]]であることから、退役軍人の問題(年金など)に非常に熱心である。また、[[1995年]]から[[1997年]]まで情報委員会の委員長を務めている。委員長として、[[アメリカ中央情報局|CIA]]改革などに取り組んだ。さらに弁護士としての経験を生かし、司法委員会でも主要なメンバーとなった。[[1987年]]、[[ロナルド・レーガン|レーガン]]大統領が[[ロバート・ボーク]]を[[合衆国最高裁判所|連邦最高裁]]判事に指名した際にはこれに反対し、委員会での質問でボークを追い詰めるなどボークの指名承認拒否に大きな役割を果たした。保守派のボークの指名承認を阻止したことで、スペクターは多くの急進派の活動家の怒りを買った。一方で同じ保守派の[[{{仮リンク|クラレンス・トーマス|en|Clarence Thomas}}が[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]大統領により[[1991年]]に指名された際には、指名承認に決定的な役割を果たした。トーマスは{{仮リンク|アニタ・ヒル|en|Anita Hill}}の告発により[[セクハラ]]を疑われ指名承認拒否の危機に瀕していたが、スペクターが司法委員会でヒルの証言の信憑性のなさを暴いたのであった。
 
2004年の再選に際し、スペクターは共和党予備選で厳しい挑戦を受けた。かねてより穏健派と看做されていた彼は、急進的な保守派活動家たちのターゲットにされていた。こうした活動家たちの支持を受けてパット・トゥーミー下院議員が立候補し、スペクターは一時は当選が危ぶまれるほどの危機に瀕した。同じペンシルベニア州選出で、党内右派の[[リック・サントラム]]上院議員及び[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ジョージ・W・ブッシュ]]大統領の支持を得て、スペクターは52%対48%の僅差で予備選を勝ち抜いた。彼は民主党のジョー・ホエッフェル下院議員らを降し、5選を勝ち得た。