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{{Infobox お笑いコンビ
| コンビ名 = B&B
| 画像 =
| キャプション =
| メンバー = [[島田洋七]]<br/>[[萩原芳樹|団順一]]、[[上方よしお]]、[[島田洋八]]
| 別名 =
| 結成年 = [[1972年]]
| 解散年 =
| 事務所 =
| 活動時期 = 1972年-
| 師匠 =
| 出身 =
| 影響 =
| 出会い =
| 旧コンビ名 =
| 現在の活動状況 =
| 芸種 = [[漫才]]
| ネタ作成者 =[[島田洋七]]
| 現在の代表番組 =
| 過去の代表番組 =
| 同期 =
| 受賞歴 =
| 公式サイト =
}}
'''B&B'''(ビー アンド ビー)は、[[日本]]の[[漫才]]コンビ。[[広島県]][[広島市]]出身の'''[[島田洋七]]'''(しまだ ようしち、[[1950年]][[2月10日]] - )が、相方を3度変えたコンビ名である。それらを合わせて説明するが、特に[[岡山県]][[笠岡市]]出身の'''[[島田洋八]]'''(しまだ ようはち、[[1950年]][[2月13日]] - )と組んだ三代目B&Bについて詳述している。このコンビの東京進出が'''[[漫才ブーム]]'''を誘発・点火させた<ref group="注釈">[[サンデー毎日]]1980年10月5日号「大特集秋の新番組を彩る『100人の顔』」という記事の「[[笑ってる場合ですよ!]]」B&Bの紹介に「『ヒロシマー』、『オカヤマー』のギャグで東京進出、一大旋風を起こす」と書かれている(149頁)。</ref><ref name="Jobs">[[2013年のテレビ特別番組一覧#3月放送|漫才歴史ミステリー 笑いのジョブズ(朝日放送)2013年3月24日]]([http://tvtopic.goo.ne.jp/kansai/program/info/170151/index.html 漫才歴史ミステリー 笑いのジョブズ - 関東版TVトピック検索 - Goo]
[http://natalie.mu/owarai/news/87256 お笑いナタリー - 漫才界のジョブズを解き明かす歴史ミステリーまもなく放送])、[http://hagiwarayoshiki.seesaa.net/archives/20130325-1.html 「笑いのジョブズ」をご覧になった方へ: 続・お笑い作家の吐息]</ref><ref>[http://beamie.jp/t/youshichi_shimada.html 島田洋七 - be amie オスカープロモーション所属タレント・モデル公式SNS]、[http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20110310/enn1103101138001-n1.htm 島田洋七「講演で日本一になったる」]、[http://www.cdjournal.com/main/calendar/20130210 2013年02月10日(日) - 今日は何の日? - CDJournal.com]、[[澤田隆治]]『漫才ブームメモリアル』、東阪企画、1982年、p83、『昭和ヒーロー事典』[[講談社]]、1989年7月、p582-583、[[西条昇]] 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 [[白泉社]] 2003年 460頁、[[井上宏]]『まんざいー大阪の笑いー』[[世界思想社]]、1981年、p19<br />中田明成『漫才ブームなのです』 [[作品社]]、1981年、18、19頁、[[ザ・ぼんち|ザ・ぼんち・里見まさと]]『おおきに! 漫才 <small>人生は何歳からでもやり直せる</small>』、[[吉本興業|ヨシモトブックス]]、[[ワニブックス]]、2013年、p57、[http://www.222.co.jp/netnews/netnews.php/articles/detail/SN/36537 ツカサネット新聞]、[http://www.e-t.ed.jp/edotori1611/simadayousiti/index.htm 紫峰祭特別講演会 2007年10月7日]、[http://www.asakyu.com/anohito/?id=240 asahi.com(朝日新聞社):就職・転職ニュース]、[http://ameblo.jp/globalevent/entry-10508264440.html .元吉本芸人の松稔が運営するSTART LINEのアメブロ]、[http://members.jcom.home.ne.jp/mokume/repo/iihana.htm もくめレポート 第1回  平川さんの話(WヤングとB&B)]、[http://blog.goo.ne.jp/daily007/e/a97bf24a54e000fc611f73f80a2c8b9a 島田洋七さん。中西正男の「ご笑納ください」]</ref>。<br />
 
コンビ名「B&B」は洋七が、昔アルバイトしていた[[ディスコ]]の店名を勝手に拝借したもので意味はない<ref name="転起力88">『転起力。 人間「島田洋七」から何を学ぶのか』、創英社 2009年 88頁</ref>。
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[[1970年]]、[[島田洋之介・今喜多代]]に弟子入りした[[島田洋七]]が[[1972年]]、[[萩原芳樹|団順一]]([[萩原芳樹]])と初代B&Bを結成、洋七は島田洋一名で[[漫才師]]としてデビューした(以下洋七)。コンビ名は「洋一・順一」をそのまま使う予定だったが、"今"という最新のネタをテーマに喋る仕事だからこそ、[[ネーミング]]も今風にしたいと洋七が「B&B」と命名した<ref name="転起力88"/>。師匠からはこっぴどく怒られたという。初舞台となった[[名古屋市|名古屋]]・[[大須演芸場]]のお客は5人だった。当初は団がリーダーで、洋七は[[漫才#ボケとツッコミ|ツッコミ]]担当。弟子上がりで素人然の洋七に対し、学生時代から[[横山やすし]]の添削を受け笑いのセンスを磨いた団が洋一に教え込む形でリードしていた。後に漫才をそれまでの"[[ドラム・ビート#8ビート|8ビート]]"から"[[ドラム・ビート#16ビート|16ビート]]"に上げたといわれる、洋七のマシンガン漫才のルーツは、団に面白いから見に行こうと誘われて見た[[松竹芸能]]の[[国分健二|ケンケン]]・てるてるであった<ref name="Jobs"/>([[#芸風|詳細は後述]])。
 
初舞台から11ヶ月で最優秀話術賞を受賞<ref>『転起力。』、p87</ref>。しかしこの初代B&Bは相方の団の失踪で消滅した<ref name="SmaSTATION">[http://www.tv-asahi.co.jp/ss/235/special/top.html トクベツキカク - SmaSTATION!!]</ref>。
 
=== 二代目B&B ===
 
[[1973年]]、洋七は[[上方よしお]](当時の芸名は上方真一、以下よしお)と二代目B&Bを結成<ref>[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/column/yoshimoto/KFullNormal20090730192.html 漫才を終えおじぎ「気持ちええ」(芸能) ― スポニチ Sponichi Annex ]</ref>。よしおは[[松竹芸能]]から吉本に移籍した<ref name="sponichi">[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/column/yoshimoto/KFullNormal20090728161.html 22カ月だけ「B&BB&B」でした ]</ref>。[[西川のりお]]とは犬猿の仲で知られるが、よしおはのりおの勧めだったという<ref name="sponichi"/>。天性とも言えるスピード感溢れるしゃべりとセンスは、関係者の間で高い評価を受け、数々の賞を受賞<ref name="sponichi"/><ref name="漫才ブームなのです18"/><ref name="新野">[[新野新]]『ぼくが書いてきたタレント全部(下)』[[青心社]]、1981年、p157-158</ref>。[[1974年]]の「[[NHK上方漫才コンテスト]]」に出場してB&Bを客席で観たという[[ザ・ぼんち|ザ・ぼんち・里見まさと]]は、「『もうええよ!』と言うくらいの大爆笑に次ぐ大爆笑で圧倒された。『負けた..』と正直にそう感じた」と述べている<ref name="おおきに42">[[ザ・ぼんち|ザ・ぼんち・里見まさと]]『おおきに! 漫才 <small>人生は何歳からでもやり直せる</small>』[[吉本興業|ヨシモトブックス]]、[[ワニブックス]]、2013年、p42-45</ref>。またこの頃、当時18歳の[[島田紳助]]がTVで洋七を見て衝撃を受け「島田洋七を倒す事に俺の青春を賭けよう」と考え、同門入りした話は今や伝説となっている<ref name="東スポ2011612">[[東京スポーツ]]、2011年6月12日、28面</ref><ref name="zakzak">[http://www.zakzak.co.jp/gei/2007_04/g2007042516.html 洋七の舞台見て「この人倒そう」と…島田紳助(1)(1)]</ref><ref name="zakzak20110830">[http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20110830/enn1108300956000-n1.htm 【紳助ツッパリ列伝】「打倒!島田洋七」が芸能界“天下取り”の原点]</ref><ref name="geocities22">[http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/1632/0_radio98_11_22.html ラジオ黄金時代、JFN、1998年11月22日]</ref><ref name="朝日1982129">[[週刊朝日]]、1982年1月29日号、p114-115</ref><ref>[[島田紳助]] [[松本人志]]著『哲学』[[幻冬舎]]、2003年3月、30-34頁<br />島田紳助『自己プロデュース力』[[ワニブックス]]、2009年、p49-56</ref>。紳助は「結局何もしてないのに勝手に倒れた」と語るが、実際は二年間、金魚のふんのように洋七について回っていた<ref>島田紳助 松本人志著『哲学』、p63、64、239―241</ref>。紳助が見たときの洋七の相方はよしおである。[[1975年]]、洋七は東京進出を考えるが、よしおが「怖い」と尻込み。また洋七がよしおに楽器を持てと強要し大ゲンカとなって解散した<ref name="sponichi"/><ref>[http://ameblo.jp/globalevent/entry-10508598022.html 元吉本芸人の松稔がプロデュースするSTART LINEのアメブロ【過去の日記】のりお・よしお秘話①]</ref>。
 
 
=== 三代目B&B ===
洋七は漫才は諦めようかと悩んだが、花月劇場の幕引き、進行役をしていた[[島田洋八]]を、桂三枝(後の[[桂文枝 (6代目)|六代目桂文枝]])が「あの人はどないや。」と薦めるので洋八を口説き同年、三代目B&Bを結成<ref name="SmaSTATION"/><ref name="スター誕生166">『お笑いスター誕生!!』、日本テレビ放送網、1981年、p166-168</ref>。「七転び八起き」または「七転八倒」から、それぞれ洋七・洋八に改名。島田紳助は「洋七の相方が洋八になって戦力は落ちた」と述べている<ref name="朝日1982129"/>。結成二年目の[[1977年]]には第6回[[上方お笑い大賞]]銀賞を受賞。翌[[1978年]]には第13回[[上方漫才大賞]]奨励賞を受賞するなど実力が認められた。こと劇場内で笑いをとることにかけてはB&Bは、一、二を争っていた<ref name="まんざい">[[井上宏]]『まんざいー大阪の笑いー』[[世界思想社]]、1981年、p18、19</ref>。しかし当時は関西でも演芸番組が激減していた時代<ref>[http://winoue.com/rensai/30-2 第30回 MZ研進会・笑の会・上方演芸研進社mydo « winoue ... - 井上宏]</ref>、B&Bが売れっ子になるという訳ではなかった<ref name="新野"/>。[[新野新]]は、B&Bを当時から高く評価し、「久方ぶりの上方漫才の収穫といわれながら、仕事がないという彼ら。B&Bくらい面白くなった漫才なら、どんどんテレビへ出て、もうとっくに茶の間のおなじみになっていいはずだが、時期が悪いといおうか、B&Bがテレビに出演することは、めったにない。それにしても、売り出す、ということはむずかしいことだと改めて思う」などと著書で述べている<ref name="新野"/><ref>[[週刊朝日]]、1981年6月19日号、p119</ref>。[[1979年]]、「[[ヤングおー!おー!]]」([[毎日放送|MBS]]制作)のチンチラチンコーナーにレギュラー抜擢されなかった事が原因で大阪の活動に限界を感じる([[#逸話|詳細は後述]])。この事が最終的に決断した理由だが、頑なに東京行きを決行した理由を洋七は幾つか異なる説明をしている。一つは当時の吉本興業には、[[やすしきよし]]、[[Wヤング]]、[[中田カウス・ボタン]]といったそうそうたる売れっ子がズラリといて、どんなに賞を獲ったとしても、自分たちは野球でいえば二軍、いつかはおハチが回ってくるかもしれないが、ボクは待ちきれなかった<ref name="スター誕生166"/>。また当時の大阪の若手実力漫才コンビの中では、ほぼ唯一の"非関西圏"の出身でもあり、大阪にいるあいだは"ヨソもん意識"があって大阪に執着は無く、東京なら"ヨソもん"の集まりだからいいだろうと考えたこと<ref>『お笑いスター誕生!!』、p170</ref>。「僕ら広島と岡山の出身やから、大阪で働くのも東京へ行くのも、根本的には違いない」<ref name="新野159">『ぼくが書いてきたタレント全部(下)』、p159-160</ref>、「一部から認められているのだが、いっこうに売れない。生活だって楽ではない。そんな焦りから気分を変えるために東京に出た」<ref name="新野159"/>。他に[[星セント・ルイス]]が大阪のテレビ番組にやってきたが、笑いでは自分たちが勝っていた。セント・ルイスの人気をみて、東京に行った方が売れるんじゃないかと思ったこと<ref name="Jobs"/><ref name="geocities15">[http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/1632/0_radio98_11_15.html ラジオ黄金時代、JFN、1998年11月15日]<br />『東京漫才うらばな史』、p221―222<br />[[浅草キッド]]著『お笑い 男の星座』 [[文藝春秋]]、2001年、p74-75</ref>。また、大阪では結構売れっ子となっていたのに、郷里の広島や、祖母のいる佐賀では殆ど知られておらず、「いくら売れても大阪ローカルではダメ、東京発の全国ネットのTV番組に出演しなければ意味がない」と悟ったこと<ref name="SmaSTATION"/><ref>西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 [[白泉社]] 2003年 460頁<br />『東京漫才うらばな史』、p220-222</ref>。他にも[[Wヤング]]の平川幸男に「お前らなら売れる。東京に行け」と勧められたという話もある<ref>[http://members.jcom.home.ne.jp/mokume/repo/iihana.htm もくめレポート 第1回  平川さんの話(WヤングとB&B)]</ref>。友人でもあり、ライバルでもあった[[ザ・ぼんち|ザ・ぼんち・里見まさと]]は、「洋七は以前から、このままではいかん。東京に出たい、出たいと言っていた」と話している<ref name="おおきに54">『おおきに! 漫才』p54-58</ref>。これらの理由から東京で活躍したいという野望が沸く<ref>『転起力。』、p99-107</ref>。当時の吉本は東京に事務所がなかった<ref group="注釈">吉本が東京事務所を設置したのは1980年10月。かつては東京に演芸場を持っていたが撤退していた(『吉本八十年の歩み』1992年、p159)。社員は[[木村政雄]]と当時若手だった[[大崎洋]]の二人でスタートした([[読売新聞]]、2010年3月27日21面)。</ref><ref>[http://www.asagei.com/2679 紳助親分の終末(1)ディスコで番組打ち合わせ]、[[読売新聞]]、2010年3月27日21面 <small>「光景、あの日、あの時、あの場所で16 </small>漫才ブームここから 1980年1月20日」</ref>。
1979年8月26日、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]「[[若い広場]]」出演、「B&Bラストin大阪([[うめだ花月]])」。同年9月、東京行きを決行した。吉本興業の幹部・芸人仲間からの反対を押し切って、強行で反旗を翻したため、吉本興業側から一方的にマネジメント契約の解除を言い渡される<ref name="東スポ201194">[[東京スポーツ]]、2011年9月4日、25面</ref><ref>[[日刊スポーツ]]、2011年8月24日、1面</ref><ref name="週刊文春20101230">[[週刊文春]]、2010年12月30日、2011年1月6日号、57―58頁</ref>。
 
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東京の[[漫才協会|漫才協団]]に加入し戸崎事務所に移籍<ref>[http://www.222.co.jp/netnews/netnews.php/articles/detail/SN/36537 ツカサネット新聞]</ref>。東京の業界はB&Bを概ね好意的に受け入れた。このため吉本は円満退社だったという説がある<ref group="注釈">独力で所属先を決めることが出来ず、結局吉本に紹介してもらった戸崎事務所とマネジメント契約を結ぶ(『転起力。』、p110)。</ref><ref name="漫才ブームなのです18">「漫才ブームなのです」、中田明成、[[作品社]]、1981年、p18、19</ref>。東京の漫才協団にすんなり加入できたのはこのため<ref>遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p219<br />『まんざいー大阪の笑いー』、p19</ref>。[[浅草松竹演芸場]]など東京の寄席にノーギャラで出演。B&Bの名前は東京の関係者には轟いており、観客がまばらなのに偵察に来た東京の若手芸人達が立ち見に並んだ<ref>『俺の彼 がばいばあちゃんスペシャル劇場』 p39-40、[[徳間書店]]、2007年9月</ref>。自身もこれを見たという[[ラサール石井]]は「何より凄かったのは洋七さんのテンポ、速射砲のような喋りとパワーあふれるツッコミ」「しかも画期的なことは、出番でない他の芸人達がB&Bが出ると楽屋から出てきて客席の後ろの方で大笑いしていた」と話している<ref>[[ラサール石井]]著 『笑いの現場 <small>ひょうきん族前夜からM―1まで</small>』[[角川・エス・エス・コミュニケーションズ]]、2008年2月、p30―31</ref>。同業者にはウケないのが普通なのである。まったく売れていなかった[[ツービート]]の[[ビートたけし]]もまた、洋七の“言葉の連射攻撃”“客を完全に飲み込んで唖然とさせる漫才”を見て衝撃を受け、スピードを早め、たけし一人が喋りまくるスタイルへ変更した、と著書『浅草キッド』に記している<ref name="浅草キッド">ビートたけし著『浅草キッド』太田出版、1988年、206頁</ref>。ツービートの看板ネタ「山形いじめ」は、B&Bの「広島vs岡山ネタ」を真似たもので<ref name="浅草キッド"/>借用元のB&Bの上京以降「山形いじめ」ネタを封印せざるを得なくなり、それがツービートの過激度を一段と高めることになった<ref>遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p227―228</ref>。こうして東京でも瞬く間に高い評価を得て、漫才協団幹部の[[内海桂子]]が「よくもこんな(凄い)人を吉本がくれたわね」と驚嘆した<ref>『東京漫才うらばな史』、p220</ref>。
 
[[1980年]]1月、[[澤田隆治]]プロデュースによる「[[花王名人劇場]]」([[関西テレビ放送|関西テレビ]])「[[激突!漫才新幹線]]」に大抜擢され出演<ref name="seikyoonline">[http://www.seikyoonline.jp/culture/bunka/2012/1203497_1485.html 笑いは世につれ  戦後大衆芸能をふり返る(13) (13) 東京漫才の若手たち]、[http://www.seikyoonline.jp/culture/bunka/2012/1203680_1485.html 笑いは世につれ  戦後大衆芸能をふり返る(14) (14) 東西の対決企画]、  [http://www.seikyoonline.jp/culture/bunka/2012/1203792_1485.html 笑いは世につれ  戦後大衆芸能をふり返る(15) (15) MANZAIMANZAI」の誕生]</ref>。この番組は[[ゴールデンタイム]]の1時間枠を[[司会|MC]]無しで、B&Bと[[やすしきよし]]、[[星セント・ルイス]]の三組が、おのおの10数分間の持ち時間で漫才のみをする、という当時としても画期的で、勿論現在のゴールデンでも見られない形態のものだった<ref name="読売2010327">[[読売新聞]]、2010年3月27日21面「光景、あの日、あの時、あの場所で16」</ref><ref name="上方放送お笑い史">『上方放送お笑い史』[[読売新聞大阪本社|読売新聞大阪本社文化部]]編、[[読売新聞社]]、1999年、p333-369</ref><ref>「よしもと100年笑いは地球を救う 80年代漫才ブーム①」[[スポーツニッポン]]、2011年9月24日26面</ref>。当時のテレビでの漫才は、お昼の演芸番組(『[[大正テレビ寄席]]』など)や、正月の[[寄席]]中継、タレントのかくし芸等で5分とか3分にコマ切れして見せるもので<ref>[[小林信彦]]著『定本 日本の喜劇人 エンターテイナー篇』[[新潮社]]、2008年4月、19頁<br />小林信彦著「笑学百科」、新潮社、1982年、p22</ref>、この頃は[[コント]]が非常に人気があり、特に東京では漫才はコントや[[落語]]に比べて影が薄い、古臭いイメージだったのである<ref>[[山下武]]『大正テレビ寄席の芸人たち』[[東京堂出版]]、2001年6月、p116<br />「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p252</ref>。関西でも同様で、極端にいえば、漫才は年寄りの娯楽に過ぎないイメージで<ref>島田紳助 松本人志著『哲学』、29、242頁</ref>、当時は演芸番組自体が激減していて、大阪でも漫才だけという番組はなく、テレビ局全体で週1~2本が細々と残っているだけという状況でゴールデンではほとんど漫才は無かった<ref name="上方笑芸の世界"/><ref name="おおきに1">『おおきに! 漫才』p1-5</ref><ref>「花王名人劇場 テレビ時代の名人芸グラフィティ」、[[澤田隆治]]、東阪企画、p44<br />新野新著『ぼくが書いてきたタレント全部(下)』、p157</ref>。ましてや若手漫才師が全国ネットのゴールデンに出演することなど無かった<ref>「漫才ブームメモリアル」、p125、252<br />自著『島田洋七とがばい芸人たち 笑魂伝承』、[[イーストプレス]]、p2</ref>。[[よしもとクリエイティブ・エージェンシー|吉本興業]]の[[木村政雄]]は「若者はゴールデンタイムに漫才なんて見たことがなかったと思う」と述べている<ref name="読売2010327"/>。また漫才と言えば、スーツや派手な[[タキシード]]、[[蝶ネクタイ]]等を着用し、年期の入った掛け合いを見せる、というものだったが<ref>[[村上七郎]]『ロングラン マスコミ漂流50年の軌跡』、[[扶桑社]]、2005年、p178</ref><ref>北野武『コマネチ!―ビートたけし全記録』、[[新潮社]]、1998年、p229</ref>、TシャツにGパン、長髪の今風の若者が、掛け合いを無視した[[ボケ]]の一方的なしゃべりで、広島や岡山など地方をネタにした郷土ギャグを、体を使ったオーバーアクション、一発芸を駆使してみせるという高速漫才は、従来の漫才とは違うとても新鮮なもので<ref group="注釈">漫才ブームが爆発した1980年8月、[[週刊朝日]]は“MANZAIはどこかた来たか“というB&Bら当時の若手の漫才についての考察を載せている。要旨は以下のようなもの。[[やすしきよし]]が登場したとき、そのあふれるようなスピード感と生活実感にびっくりしたが(今の若手の漫才)は、スピードがさらに速い。ストーリーもない。会話すらなくて、一方的なギャグの連発。相棒は合いの手を入れるだけ。そのギャグにしても観客全体を相手にしてはいなくて、わかるヤツにはわかる、わからんヤツにはわからなくていい。むしろわからんでくれればウレシイ、といわんばかりのポーズである。少なくとも、いまの漫才ブームの先頭を走るコンビたちは、これまでの漫才から遠く隔たっているようにみえる。「[[ヤングおー!おー!]]」の浜本忠義は「いまの漫才を、これまでの漫才の流の中に位置づけるのは難しい」。[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]の有川寛は「かつて漫才は"庶民"を相手にしていた。漫才師がアホになって、客を満足させていたんです。しかし、いまや"庶民"はいない。みんな中産階級になってしまった。漫才は長くその変化に追いつけなかったけど、ここへ来て急激に変わったということでしょう」と話す。また、驚くべきは、昨今の漫才における「言論の自由」の拡大である。その成果は大変なものがある。それまで「差別」に対する批判コワさに、われわれはどれほどびくびくとモノを書いていたか。テレビ局はどれほど神経をとがらせていたか。若手漫才師たちがあっという間に成し遂げた偉業、無謀について深い感慨を持つ。それでも笑って済むのはなぜか。差別も罵倒も、極限までいくとむしろ抽象化されて、アッケラカンとしたホンネの笑いしか残らないのだろうか。[[古川嘉一郎]]は「芸といえば、それが一種の芸でしょうね。言葉が一種符丁化されて、ナマナマしい意味を持たなくなっている。きわどい芸です」と話す。今はギャグの時代。ジャリ文化はギャグ漬けになっている([[週刊朝日]]、1980年8月22日号、29、30頁)。</ref>、やすきよにも一歩も引かない姿は大きな反響を巻き起こした<ref name="上方放送お笑い史"/><ref>[http://www.oricon.co.jp/news/movie/80012/ 『M-1』決勝者がダウンタウンらの“名作漫才”をカバー ニュース-ORICON ]<br />[http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/1632/0_radio98_11_15.html ラジオ黄金時代、JFN、1998年11月15日]<br />『東京漫才うらばな史』、p222<br />西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 [[白泉社]] 2003年、459-461頁<br />芸能界「一発屋」外伝、宝泉薫、2001年10月、[[彩流社]]、p16<br />「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p125、161、368<br />[http://www.cw2.jp/2007-06/0001/takataka0615cw2/archives/2008/01/29-020200.html ながいやんの「ファイト!」: 漫才ブームと甦る「やす・きよ漫才」]<br />島田紳助 松本人志著『哲学』、256、257頁<br />[http://forest.kinokuniya.co.jp/PlanSP/341 紀伊國屋運営DVD/CD専門ショッピングサイト 「Forest Plus」]<br />[http://d.hatena.ne.jp/toronei/20100105/A 『M-1グランプリ』とは何を目的に、何を審査しているのか?]</ref>。"[[ドラム・ビート#16ビート|16ビート]]"の"マシンガン漫才"が初めて全国のお茶の間に届けられた<ref name="Jobs"/>。こういったスタイルは多くがその元祖、草分けといえるものであり、現在もお笑いの基本となっている。元々、この企画はタイトル通り、東京代表の[[星セント・ルイス]]と、大阪代表の[[やすしきよし]]の激突で、広島vs岡山ネタをやっていた新人のB&Bは"つけ合わせ"としての出演だった<ref>「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p125</ref>。この千載一遇のチャンスをB&Bはモノにしたわけである。長らく司会に専念していたやすしきよしが、長い漫才をやるという話題性もあって「激突!漫才新幹線」は高視聴率を稼ぎ、これが各局とも漫才番組を製作する切っ掛けとなった<ref>[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/05/11/kiji/K20130511005779890.html 「花王名人劇場」“お笑いの聖地”NGKで23年ぶり復活 ― スポニチ ]、[http://www.sky-a.co.jp/rakugoblog/rakugo200903203.html らくごくら::吉本興業、大崎洋新社長]<br />「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p34-37、54、55、60、61、96-98、125、370他<br />ラサール石井著 『笑いの現場 <small>ひょうきん族前夜からM―1まで</small>』、p32―35<br />遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p230―233<br />「漫才ブームなのです」、中田明成、p16、17</ref>。洋七は「『激突!漫才新幹線』の時は、僕らが一番売れておらず、伸び伸びとできた。お客さんも新鮮に感じたんやろね、ドッカン、ドッカン受けた。終了後、舞台のそでで横山やすし師匠に『お前ら、売れるで』って言われて、ものすごくうれしかったね。ブームが起きるなんて、全然思わなかった。全国ネットで夜9時やから、名前ぐらいは知ってもらえるやろうと。放送翌日にCMの話が来て、びっくりしたわ」などと話している<ref name="読売2010327"/>。また漫才番組はドラマと違って、企画を立てて1週間後に放送できるというお手軽さもあった<ref>「花王名人劇場 テレビ時代の名人芸グラフィティ」、[[澤田隆治]]、東阪企画、p44<br />「花王名人大賞 にっぽんの芸人392」、澤田隆治、東阪企画、p82、258、388<br />小林信彦著『定本 日本の喜劇人 エンターテイナー篇』新潮社、2008年4月、162、198、199、201頁</ref>。同年4月から始まった「[[お笑いスター誕生!!]]」([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])でも、先兵役を務めて、ケタ違いの実力を見せ、ストレートで10週を勝ち抜き初代グランプリとなり大ブレイク<ref>『漫才ブームメモリアル』、p85</ref>、[[漫才ブーム]]を引き起こす<ref group="注釈">『[[メントレG]]』(2007年12月16日放送)は「ツービートとともに漫才ブームを引き起こす」と紹介。</ref><ref name="interview">[http://www.loft-prj.co.jp/interview/0303/10.html 島田洋七インタビュー]</ref><ref>[http://www.asakyu.com/anohito/?id=240 asahi.com(朝日新聞社):就職・転職ニュース]</ref><ref name="日本全国">『日本全国「お土産・名産品」おもしろ事典』日本博学倶楽部、[[PHP研究所]]、2008年、p20-22</ref><ref>西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 [[白泉社]] 2003年 p461、462<br />「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p83-85、369<br />『昭和ヒーロー事典』[[講談社]]、1989年7月、p582-583<br />[http://www.222.co.jp/netnews/netnews.php/articles/detail/SN/36537 ツカサネット新聞]<br />遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p222―223<br />[http://toakes.co.jp/pleas/vaudeville/manzai.htm 週刊現代、2004年4月24日号、p192-195]<br />[[朝日新聞]]、2009年10月22日16面</ref>。お笑い芸人で初めて化粧品洗剤業界のCM([[花王]][[シャンプー]])に起用され<ref group="注釈">B&Bの抜擢は単なるお笑いのイメージとは違う、新しいタイプのタレントとして見た当時の花王副社長・佐川幸三郎によるもの(「漫才ブームメモリアル」p228-231)。</ref><ref name="geocities15"/>、お笑い芸人で初めて客席からテープが飛んだ。サイン色紙を手にした女子中・高校生が演芸場のロビーに列をつくり[[出待ち]]した<ref>『上方放送お笑い史』p343</ref><ref>足立克己『いいたい放題上方漫才史』、東方出版、p183</ref><ref name="上方笑芸の世界">[[古川嘉一郎]]他『上方笑芸の世界』、[[白水社]]、1984年、p15-17</ref>。最初に女性ファンを呼び込み、お笑い芸人を[[アイドル]]化させた功績は計り知れない<ref name="zakzak">[http://www.zakzak.co.jp/people/archive/20061111.html ぴいぷる:ZAKZAK]</ref><ref>『花王名人大賞 にっぽんの芸人392』、p82<br />『漫才ブームメモリアル』、p82、88、89、101-103<br />「昭和ヒーロー事典 芸能編」[[講談社]]、1989年7月、p582-583<br />『お笑いスター誕生!!』、p176</ref>。漫才師で初めて全国ネットのレギュラー『[[笑ってる場合ですよ!]]』の[[司会|MC]]を務めたのも、B&Bが一番人気があったからである<ref name="interview"/><ref>『わたしの失敗Ⅱ』、産経新聞出版、2007年、p19-26<br />澤田隆治『漫才ブームメモリアル』、東阪企画、1982年、p104</ref>。B&Bは漫才ブームの最大のスターであった<ref>[[大村大次郎]]『ビートたけしは「財テク」の天才だった!』、あっぷる出版社、2008年、p57</ref><ref>[http://www.asakusakid.com/diary/0102-jou2.html 博士の悪童日記<2001年2月上旬~後編>]</ref>。洋七は「あの時期、爆発的に売れてるアイドルがいなかったんです。それで、騒ぐ対象がないから漫才師に向けられたと思う」と解説している<ref>『上方放送お笑い史』p339</ref>。[[たのきんトリオ]]がブレイクする直前の[[エアポケット]]状態の時期であったかもしれない。 
 
  
 
===絶頂期===
同年4月、[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[プロデューサー]][[横沢彪]]が穴埋め企画として、失敗覚悟でゴールデンタイム1時間半という画期的なお笑い番組を敢行。「[[THE MANZAI (1980年代のテレビ番組)|THE MANZAI]]」と題したこの番組は、B&Bをはじめとした若手芸人を中心に起用、笑い屋のおばさんを廃止し、客席には[[落語研究会 (サークル活動)|落研]]やプロレス研究会などの大学生だけを入れる、[[ディスコ]]調の派手なセット、[[ナレーション]]にアメリカナイズされた[[小林克也]]の起用、服装は自由、ネタを編集する、[[コマーシャルメッセージ|CM]]ネタを認めるという、当時としてはタブーだった事をすべて許容した斬新なものだった<ref>[[横沢彪]]『犬も歩けばプロデューサー』 日本放送出版協会、1994年10月、p85-87<br />ラサール石井著 『笑いの現場 <small>ひょうきん族前夜からM―1まで</small>』、p35―36<br />[http://www.gendai.net/?m=view&g=geino&c=070&no=19473 ゲンダイネット]</ref>。これらの大半を提案したのは、何と洋七という<ref>芸能界「一発屋」外伝、宝泉薫、2001年10月、彩流社、p12</ref><ref name="cyzo">[http://www.cyzo.com/2011/01/post_6455.html 「たけし、さんま、タモリの育ての親じゃない!?」故・横澤彪氏の葬儀にBIG3は出席せず]</ref>
。若手芸人といってもそれなりのキャリアを持った彼らは、大いにその実力を発揮し漫才は爆発的な人気を得て社会現象ともなる<ref>[http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20130123/enn1301231540011-n1.htm|ぼんちおさむが語る“漫才ブーム”の真相…  東京&大阪を12往復半!]</ref>。7月には「[[お笑いスター誕生!!]]」での10週連続勝ち抜き初代グランドチャンピオンとなった。これらの活躍により1980年代初頭の[[漫才ブーム]]の火付け役となり[[ツービート]]、[[ザ・ぼんち]]、[[のりお・よしお]]、[[紳助・竜介]]らが後に続く<ref name="geocities15"/><ref>『昭和ヒーロー事典』、p582-583<br />[http://www.cw2.jp/2007-06/0001/takataka0615cw2/archives/2008/01/29-020200.html ながいやんの「ファイト!」: 漫才ブームと甦る「やす・きよ漫才」]<br />[http://www.zakzak.co.jp/people/archive/20061111.html ぴいぷる:ZAKZAK]</ref>。当時既に[[星セント・ルイス]]が人気を得ていたが、この頃の漫才師の中ではB&Bが、アイドル的人気を得て[[ブロマイド]]が売れるという現象まで引き起こし一気に追い抜いた。B&Bの人気爆発によって、当時若手といわれた[[島田紳助・松本竜介|紳助・竜介]]、[[オール阪神・巨人]]、[[西川のりお・上方よしお|のりお・よしお]]らが続いた<ref name="geocities22"/><ref name="seikyoonline"/>。B&Bは若い女性に大人気となり<ref>西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 [[白泉社]] 2003年 p462</ref>、[[ブロマイド]]の売り上げが[[アイドル]]と混じって男性部門第3位となる。漫才コンビの売れ行きが順位の上位をしめたのは、マルベル堂の歴史で初めてのことだった<ref>『マルベル堂のブロマイド』、マルベル堂、[[文藝春秋]]、p64、212</ref>。最初はビートたけしがB&Bのボディーガードをやっていた<ref name="geocities22"/>。この人気でピーク時で、週に実に26本<ref name="読売2010327"/>、月84本<ref name="Jobs"/>(月~金の[[帯番組]]を5本と計算すると)、或いは月100本以上もの<!--月~金の[[帯番組]]を5本と計算すると週に実に26本もの-->番組に出演する殺人的スケジュールとなる<ref name="上方笑芸の世界"/>。月84本をやっていた時は、70本ぐらいで芸能界は俺一人でやってる気持ちになったという<ref name="Jobs"/>。2012年10月11日に出演した「イマなま3チャンネル」(中国放送)では「当時レギュラーが週19本。これはまだ抜かれてない記録ではないか。みのもんたが16本だった」と話した。同年10月、「[[笑ってる場合ですよ!]]」([[フジテレビジョン|フジテレビ]])の総合MCに抜擢される。関西芸人が全国ネットのお昼の番組の司会というのも画期的だった<ref>島田紳助 松本人志著『哲学』、p243</ref>、当時は漫才が司会をやって当たったためしがない、といわれていたのである<ref>『漫才ブームメモリアル』、p104</ref>。この年、時間が取れない中、深夜0時、2時、3時、と3回のクリスマスディナーショーをこなす。「所属事務所は社長が一人、タレントはB&Bだけで社長がマネージャーを兼務した<ref name="週刊文春20101230"/>。そのため[[ギャランティー|ギャラ]]は3人で分けて毎月数千万を紙袋や段ボール箱に入れて持って帰った<ref name="東スポ2011612"/><ref>ラサール石井著 『笑いの現場 <small>ひょうきん族前夜からM―1まで</small>』、p35―36</ref>。漫才ブーム当時は漫才師で最も人気が有り、2007年4月21日放送の『[[メレンゲの気持ち]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])で洋七は「月給が最高の月は8000万円、4年間で32億円稼いだ」と自称している。
 
===解散、個々での活動===
しかし、この人気が原因で漫才のネタを考える時間が無くなり(移動時が唯一睡眠出来る時間だったと言われている)、同じネタを繰り返し使うようになって、徐々に観衆から飽きられるようになってしまう。[[1981年]]から始まった「[[オレたちひょうきん族]]」([[フジテレビジョン|フジテレビ]])ではたけしと[[明石家さんま]]がメインでB&Bは完全に脇にまわる<ref name="geocities22"/>。また、[[1982年]]の「笑ってる場合ですよ!」終了と同時に人気が急降下、[[1983年]]秋にB&Bを解散<ref name="失敗">『わたしの失敗Ⅱ』 産経新聞出版、2007年、p19-26</ref>。洋七は精神的な理由で6年間の休養生活に入り、表舞台から姿を消した<ref name="失敗"/>。
 
''個々での活動は[[#急降下|島田洋七]]、[[島田洋八]]を参照''。 
 
洋七は漫才スタイルのヒントにした「ケンケン・てるてる」の「ケンケン」こと[[国分健二]](元・浮世亭ケンジ)と新たに「スティング」を結成、抜群の面白さを見せたが、所属事務所の力も弱かったためか、テレビではそれほど出演することが出来なかった。[[テレビ朝日]]「[[トゥナイト (テレビ番組)|トゥナイト]]」のレギュラーになるも、すぐに吉本興業の新人タレントにその座を奪われた。のちにB&Bと改名するが、解散。[[間寛平]]とも漫才コンビを組むがうまくいかず、[[1991年]]1991真夏大阪漫才格闘技バトルロイヤルで8年ぶりにB&Bを再結成させた。しかしまたも解散。親友の[[ビートたけし]]の番組「[[北野ファンクラブ]]」で番組内限定の漫才コンビ“B&BEAT”でたけしとともに漫才のカンを維持、その後[[1996年]]に洋八と再々結成して吉本興業に復帰。復帰当時は駆け出しからの出直しを誓い、トップバッターを受け持ち、「もみじ饅頭」等のギャグを封印。正統派漫才で見せると公約した。吉本所属時には[[なんばグランド花月]]他で月替わりのレギュラー出演、スピード感溢れる掛け合いは色あせていなかった。一時期封印していたかつてのギャグは後に解禁している。
 
洋七は[[1999年]]から、[[佐賀県]][[佐賀市]]東与賀町に居を構えて<ref>[[産経新聞]]、2009年5月5日14面</ref>、講演会中心の活動してきたが、佐賀での極貧の少年時代を著した「[[佐賀のがばいばあちゃん]]」がベストセラーとなって漫画化・映画化もされた。その「佐賀のがばいばあちゃん」関連の収益について吉本と対立して[[2007年]]、吉本興業を再度離籍した(2007年4月10日)<ref name="東スポ201194"/><ref name="zakzak"/><ref>[http://www.cyzo.com/2009/02/post_1535.html 島田洋七監督の『がばいばあちゃん』が公開前から大ピンチ!- 日刊サイゾー]、[http://www.cyzo.com/2009/05/post_2097.html 島田洋七監督映画『がばい』大コケでもタダでは起きない ... - 日刊サイゾー]、[http://www.zakzak.co.jp/gei/2007_04/g2007041901.html “決別”を撤回へ…洋七、結局元サヤ吉本“残留決意” - ZAKZAK]、[http://www.2nn.jp/mnewsplus/1198298489/ 吉本と再び決別!島田洋七の契約終了]</ref>。吉本所属時の[[2002年]]から5年間『[[M-1グランプリ]]』の審査員を担当。吉本退社後はマスメディアへの露出が減ったが<ref>[http://www.cyzo.com/2011/02/post_6604.html ざわめく吉本興業の暗部......「コメディNo.1」前田五郎の1億2,000万円訴訟に和解勧告]</ref><ref name="cyzo201209">[http://www.cyzo.com/2012/09/post_11370.html オスカー移籍の島田洋七が若手芸人たちに宣戦布告! - 日刊サイゾー]</ref>、洋八とのB&Bは[[2013年]]現在も活動している<ref>[http://www.asahi.com/culture/update/1029/OSK201210280191.html?ref=chiezou B&BB&B5年ぶり復活ライブ  あのメーカーが特別協賛]</ref>。
 
== 評価 ==
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前述の『漫才歴史ミステリー 笑いのジョブズ』(朝日放送)は、漫才を一夜に変えた人物、革命を起こした人物=「笑いのジョブズ([[スティーブ・ジョブズ]])」の正体に迫る歴史ミステリーという内容であったが、漫才ブームが興ったあの夜、[[1980年]][[4月1日]]「[[THE MANZAI (1980年代のテレビ番組)|THE MANZAI]]」の舞台に現れた7組の漫才師、[[ツービート]]、B&B、[[ザ・ぼんち]]、[[横山やすし・西川きよし]]、[[島田紳助・松本竜介]]、[[星セント・ルイス]]、[[中田カウス・ボタン]]に加えて、[[横山やすし・西川きよし|やすきよ]]が漫才を再開する切っ掛けを与えた[[Wヤング]]、そして洋七に漫才スタイルにヒントを与えた[[国分健二]]を1980年代の漫才ブームに於ける「笑いのジョブズ」に認定した<ref name="Jobs"/>。
 
[[ネタ]]は全て洋七の自作<ref>『年刊 人物情報事典'83』 Ⅲ芸能・スポーツ・世相編、[[日外アソシエーツ]]、1983年、453頁</ref>。ほとんど洋七が喋るためネタ合わせもしない<ref>[http://www.bunshun.co.jp/jicho/monkuakka/monkuakka.htm 文藝春秋|雑誌|本の話|自著を語る 島田洋七 『文句あっか!!』]</ref>。ネタ合わせをしたのは後述する消防士ネタ"だけという。こうしたB&Bら若手の漫才を[[古川嘉一郎]]は当時、「自作自演、台本なし。仲間うちのシャレをそのまま出してきた。わたしら、感性の漫才てなこというとるんですが」と嘆いた<ref>[[週刊朝日]]、1980年8月22日号、29頁</ref>。漫才ブーム以降の漫才師はネタは自作が多く、[[澤田隆治]]は「作家はいらん」と言ったという。漫才ブーム以降は芸は不要、[[キャラクター]]が売れる時代になったという見方がある<ref>[http://www014.upp.so-net.ne.jp/t-kita/shougei0024.html ぼやいたるねん:笑芸つれづれ噺]</ref>。
 
===ギャグ===
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** [[一発ギャグ]]「[[もみじ饅頭|モミジまんじゅうー!]]」の誕生の経緯であるが、これは[[ネタ]]ではなく[[アドリブ]]で偶然生まれたものだという。お互いの出身地、広島と岡山を自慢し合い、けなし合うという、元祖、"ご当地漫才"<ref>[http://natalie.mu/owarai/news/37976 お笑いナタリー - 東京ダイナマイトがダウンタウンの漫才「誘拐」を完コピ]</ref>ともいわれる有名な「広島VS岡山漫才」<ref>[http://www.cyzowoman.com/2010/11/post_2666.html 名作漫才ネタの"カバー"は、お笑いの新たなスタイルになる? - サイゾー ]</ref>の中で使われるギャグだが、これも最初から台本はなく、岡山と広島の褒め合い、けなし合いをしようとだけ決めて舞台に出たのが始まり。洋八から岡山は[[マスカット]]や[[桃]]が有名だと言われ、その時広島には有名な食べ物は何があるだろうと考えて、何も思いつかず。ふと、全国的にはあまり知られていないが、そういえば「もみじまんじゅう」があったなと思い出して、その饅頭の形を思い出しながら、「もみじまんじゅう!」と言った。意味も何もなかったが、すると会場がどっとうけた。「これだ!」と思い、以降、一発ギャグとして使うようになったという。看板ネタでもある「広島VS岡山漫才」は、数年間受けなかったが、これをやり通し、回りから「もうそのネタやめたら」との声も出たが、「売れた上でもマンネリならやめるが、今はこれで勝負したいんです」と譲らず、しつこく続けたものであった<ref name="漫才ブームなのです18"/>。
** [[もみじ饅頭]]も([[お好み焼き#広島風お好み焼き|広島のお好み焼き]]も)[[1970年代]]当時は全国的にはほとんど知られていなかった。もみじ饅頭も、このギャグが流行るまでは、広島県民にとってもあまり馴染みのあるものでは無く「[[宮島]]に行きゃぁ売っとるよ」という程度の存在だったが<ref group="注釈">もみじ饅頭は厳島参詣の人たちの宮島みやげであった([[朝日新聞]]2009年1月28日、23面)。</ref>、このギャグのブームでメーカーが15社から一気に200社にまで増えた<ref name="日本全国"/><ref>「[[ヒットの泉〜ニッポンの夢ヂカラ!〜]]」、テレビ朝日、2013年1月6日放送([http://datazoo.jp/tv/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E6%B3%89%E3%80%9C%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%A4%A2%E3%83%82%E3%82%AB%E3%83%A9%EF%BC%81%E3%80%9C/614786 ヒットの泉〜ニッポンの夢ヂカラ!〜]))</ref><ref name="e-town">[http://www.rcc.net/e-town/mm/bn/060603.html 「Eタウン」中国放送(RCC)2006年6月3日]</ref>。その中でも最大手の[[にしき堂]]は売上が5割増えたとも<ref>[http://www.chugoku-np.co.jp/wagahibi/9_nishiki/nishi060930.html わが日々 にしき堂会長・大谷照三氏(5) お笑いブーム ]</ref><ref name="中国新聞2010813">[[中国新聞]]、2010年8月13日13面</ref>10倍に跳ね上がったともいわれ、最盛期には[[修学旅行]]のコースにもなって生産が追いつかず、深夜にまで工場を稼動させていた<ref name="日本全国"/>。大きな工場を新築できたのはB&Bのおかげともいわれる<ref name="geocities22"/>。もみじ饅頭はB&Bのギャグによって全国区になり<ref name="日本全国"/>、ブームが終わった後も完全に広島土産として定着し、現在でもメーカーは150社程度ある<ref name="日本全国"/><ref name="中国新聞2010813"/>。広島のお土産物屋では今でも1/3のスペースがもみじ饅頭で占められる。
** 広島県民にとってあまり馴染みが無かった「[[もみじ饅頭|モミジまんじゅう]]」を、洋七が広島名物のギャグとして使った理由は、洋七が佐賀に預けられていた時代に、たまたま母親がにしき堂の近くの食堂で働いていて、毎月の仕送りと一緒にもみじ饅頭を入れて佐賀に送っていたため<ref name="e-town"/><ref>『[[グレートマザー物語]]』「 島田洋七の母 ~ 涙のもみじ饅頭 ~」[[テレビ朝日]]、2005年12月11日放送</ref><ref name="日本全国"/>。「もみじ饅頭」は、遠く離れた母親を思い出す味であり、洋七にとって故郷・広島の味として強烈に記憶に刷り込まれた物だった。洋七は今でも「もみじ饅頭」を見ると涙が出るという<ref name="日本全国"/><ref>[http://www.47club.jp/webshop/html/top/interview/01_071130.jsp 47CLUB スペシャルインタビュー]、[http://www.funasaki.net/back/back5/1880.html 広島eマガジン VOL.1880  10.28]</ref>。
** 洋七の功績に感謝したにしき堂の大谷照三会長は、お礼に現金5000万ほどを手渡そうとしたが、洋七は逆に「われわれももみじ饅頭のお陰で売れた」と受け取らなかった<ref name="e-town"/>。しかし、大谷会長が感謝の気持ちを表すため、広島の飲食店に対して「B&Bの飲食代は当人から受け取らず、にしき堂へ請求書を回せ」と指示している説があり、洋七は今でも広島へ行くと、店がお金を受け取らないため飲食費は無料とのこと<ref>[http://www.miyajima.or.jp/present/present_momiman.html 社団法人宮島観光協会 |お土産|もみじ饅頭|]、[http://www.l-co.co.jp/times/log/07/070101/28.html 生誕100周年もみじ饅頭物語 :西広島タイムス]</ref>。
** 「モミジまんじゅうー!」のギャグが流行った時、広島の県菓に選ばれ宮島で表彰された。二千人位の参列者の前で、一枚板の3メートルもある巨大[[しゃもじ]]を渡された。「このしゃもじは由緒あるなにがし寺に奉納されたもので…」と言われたため、「いらん」とは言えず、半分にして持って帰るわけにもいかず。結局梱包して[[宅急便]]で送ったら5万円かかった。しかし大きすぎて家に入らず、仕方なく物置を70万円かけて作って斜めに入れた。やはり使い道もないので処分することになり、[[高野山]]まで運んで奉納して拝んでもらって燃やしたら100万円かかったという<ref>[[浅草キッド]]『お笑い 男の星座』  p79-80、文藝春秋、2001年</ref><ref>自著『島田洋七とがばい芸人たち 笑魂伝承』、イーストプレス、p32-35</ref>。
** [[1982年]][[10月17日]]に[[テレビ朝日]]系で放送された[[刑事ドラマ]]『[[西部警察 PART-II]]』第18話「広島市街パニック!!」は、広島市内を中心としたロケで終盤には[[広島電鉄]]の[[路面電車]]を爆破するなど、大がかりなアクションシーンで、同ドラマの傑作選として今でもよく再放送されて有名であるが、B&Bはこの回のゲストとして出演している。役柄は洋七がにしき堂の従業員で、広電の市内電車をジャックした犯人に狙われるという設定で、実際ににしき堂の本社・工場で[[ロケーション撮影|ロケ]]が行われた。一方、洋八は洋七の友人役で同じく地元企業である[[チチヤス]][[ヨーグルト]]の工場で働く従業員という設定であった。(詳細→[[広島電鉄#その他]])
** [[2013年]]7月から始まった[[デイリースポーツ]]のMEMORIESシリーズ連載スタートにあたり、洋七は担当者から「人生もみじまんじゅう」という意味不明のタイトルを提案されたが、これを拒否し「島田洋七のこんな人生でゴメンね」と変更した<ref>[[デイリースポーツ]]連載「島田洋七のこんな人生でゴメンね(1)」2013年7月2日</ref>。
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== 受賞歴 ==
*1975年 [[NHK上方漫才コンテスト|昭和48年度 第4回 NHK上方漫才コンテスト]] 優秀話術賞 - '''洋一・慎一コンビ時代'''
*1976年 [[NHK上方漫才コンテスト|昭和50年度 第6回NHK上方漫才コンテスト]] 優秀努力賞
*1977年 [[上方お笑い大賞|第6回上方お笑い大賞]] 銀賞
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*1980年 [[日本テレビ放送網|日本テレビ]] [[お笑いスター誕生!!]] 初代グランプリ
*1980年 [[日本放送演芸大賞|第8回日本放送演芸大賞]] 最優秀ホープ賞
*1980年 [[国立演芸場|第2回国立演芸場 花形新人演芸会新人賞]] 銀賞
*1981年 [[日本放送演芸大賞|第9回日本放送演芸大賞]] 漫才部門賞
 
== レコード ==
=== シングル ===
# 恋のTake 3(1980年9月21日)  07SH846
#:作詞:[[高田ひろお]] 作曲:[[鈴木邦彦]] 編曲:[[鈴木邦彦]]
#:(c/w)ミツコ
#:作詞:高田ひろお 作曲:鈴木邦彦 編曲:鈴木邦彦
# 潮風の香りの中で(1981年5月1日)  07SH972
#:作詞:高木佳代 作曲:下園千晶 編曲:[[矢野立美]]
#:(c/w)ひとり旅
#:作詞:下園千晶 作曲:下園千晶 編曲:矢野立美
# 泣き虫ハイウェー(1981年10月)  07SH1056
#:作詞:吉村優輝 作曲:鈴木邦彦 編曲:鈴木邦彦
#:(c/w)TOKYO CAR BOYビリー・ザ・キッド
#:作詞:[[松本一起]] 作曲:鈴木邦彦 編曲:鈴木邦彦
# 世の中わからない節(1981年11月)  07SH1095
#:作詞:島田洋七 作曲:島田洋七
#:(c/w)おんど笠岡
#:作詞:吉村優輝 作曲:信楽順三
 
=== アルバム ===
# 人気もん!ふたり旅 (1981年)  28AH1281
 
※ 全て[[CBSソニー]]よりリリース
 
== 書籍 ==
*『B&Bの仁義なき戦い 広島ヤクザと岡山ギャングの巻』  [[KKベストセラーズ]](1980年9月)
*『B&Bの愛しかた愛されかた』  KKベストセラーズ(1980年12月)
*『B&Bと遊ぶ本 いたずらハイスクール<爆笑編>』  KKベストセラーズ(1982年1月)
 
==ドラマ出演==
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* [[いじわるばあさん#青島幸男版 (2)|意地悪ばあさん]] 第14話「空とぶ円盤ですよの巻」 ([[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[1982年]])
* [[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]] 第827話「簪は知っていた」 (フジテレビ、1982年)
* [[柳生十兵衛あばれ旅]] ([[テレビ朝日]]、[[1982年]])
* [[西部警察 PART-II]] 第18話「広島市街パニック!!」 (テレビ朝日、1982年)