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[[1971年]]には[[ハワイ]]を除く米本土では日系人として初めて、大都市サンノゼ市長に当選。[[1974年]]にはやはり米本土では初めて[[アメリカ合衆国下院|米国下院]]議員に当選した。[[1995年]]まで20年以上にわたって下院議員を務め、その間大部分は運輸委員会に所属したほか、1988年には[[太平洋戦争]]中に行われた[[日系人の強制収容]]に対するアメリカ合衆国政府による公式の謝罪及び賠償を規定したCivil Liberties Act(市民の自由法 ([[w:Civil Liberties Act of 1988|英語]]))の成立を陰で支えた<ref name=JANM>{{cite web|url=http://www.discovernikkei.org/ja/interviews/profiles/140/|title=ノーマン・ヨシオ・ミネタ|publisher=JAPANESE AMERICAN NATIONAL MUSEUM|accessdate=2013-10-11}}</ref>。
 
その後、[[ロッキード・マーティン|ロッキード・マーティン社]]副社長を経て、[[2000年]]から[[2001年]]まで[[ビル・クリントン]]政権で商務長官。2001年から[[2006年]]まで[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ジョージ・W・ブッシュ]]政権でも運輸長官に任命され、運輸長官として最も長い任期を務めた<ref name=JANM/>。2001年[[9月11日]]に発生した[[米国同時多発テロ事件]]では、運輸省でニューヨークの事件を知り、ホワイトハウスから呼び出されホワイトハウスの地下深くのPEOC(President's Emergency Operating Center)で対応にあたる。米国史上初めて全民間航空機の緊急着陸を命令、アメリカ国内を飛んでいた4638機の飛行機を2時間20分ですべて強制的に着陸させ、アメリカに飛んでくる飛行機の受け入れを拒否し、ヨーロッパやアジアから飛んでくる飛行機の受け入れをカナダに依頼した<ref>{{cite web|date=2009-03-18|url=http://www.taro.org/2009/03/post-525.php|title=ノーマン・ミネタ|publisher=河野太郎公式ブログ ごまめの歯ぎしり|accessdate=2013-10-11}}</ref>。多くのアメリカのジャーナリストが人種プロファイリングを支持する中、自身を含む日系人の強制収容を身をもって体験したミネタはこれを拒否、各方面から批判を浴びる中、[[CBS]]の番組「[[60ミニッツ]]」に出演し、イスラム教徒やアラブ系への人種差別を非難、特定の人種に対するスクリーニングを断固として拒否した。一方で、それまで航空会社の自主判断に任されていた空港での安全検査を、新たに組織した[[連邦航空保安局]]に一括、連邦政府職員による全航空機搭乗者を対象とした検査強化で対応した。
 
2001年11月、ミネタの地元のサンノゼ国際空港は、ミネタの長年の功績を[[顕彰]]して、同空港の正式名を「[[ノーマン・Y・ミネタ・サンノゼ国際空港]]」と改称した。