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'''ジャン・ピエール・レイ'''(Jean Pierre Rey、[[1858年]]
== 生涯 ==
[[安政]]5年([[1858年]]
明治21年([[1887年]])1月、同施設に収容されていた[[孤児]]たちが[[青年]]へと成長し職業訓練等が必要になり、もっと大きな施設が必要となったため、[[高木甚三郎]]の協力を得て[[東京府]][[小石川区]]関口台町(現在の[[東京都]][[文京区]][[関口]])に移転し、[[聖母仏語学校]]を設立した。レイはこの施設で孤児達の自立心を育成するため、パン製造や大工仕事などを習得させた。特にパン製造は成功を収め「[[フランスパン|関口パン]]」の愛称で呼ばれるほど周囲の住民たちの評判となった。明治45年([[1912年]])6月、前任のフランソワ・ボンヌが死去したため、自らが設計した[[関口教会]]の聖堂で[[司教]]に叙階され東京[[大司教]]に就任し、[[昭和]]2年([[1927年]])に引退するまで重要な任務を遂行した。引退後は、東郷教会に移り住み、昭和5年([[1930年]])5月25日死去した。
== 関連項目 ==
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