「羽黒山政司」の版間の差分

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汀透徹 (会話 | 投稿記録)
一部リンク追加および四股名注釈『(後の玉乃海)』。
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* 横綱として強いだけでなく、他の力士の危機を救った人格者としても知られる。大関時代、幕下の[[玉乃海太三郎|福住太三郎]](後の[[玉乃海太三郎|玉乃海]])が酔った勢いでタクシー運転手と喧嘩し、[[憲兵]]が仲裁に入ったがこれを巻き込んでの暴力事件に発展したところ、[[銃殺]]直前で必死に詫びを入れて許してもらった。戦後は新十両の[[若乃花幹士 (初代)|若ノ花幹士]]が飲酒中に所持金が不足して[[付き人]]を使い、[[東富士欽壹]]の元へところへ借りに行かせて[[除名]]されそうになった時を食い止めた。両者とも後に幕内上位に進出し、羽黒山から[[金星 (相撲)|金星]]を奪って[[恩返し (相撲)|恩に報いて]]いる。中でも玉乃海が恩に報いた一番は、羽黒山最後の土俵だった。
* 人格者である一方相撲美に厳しい性格であり、1941年1月場所12日目に[[前田山英五郎|前田山]]からその場所中連日のように続けていた激しい張り手を喰らって完敗した際に「あれは相撲じゃなくて喧嘩だ。」と激怒した。
* 1年先に入門した同部屋の兄弟子である[[名寄岩静男|名寄岩]]とは入門から死去に至るまで一切口を聞かなかったという異様な不仲にあった。これは、上述のように相撲美に厳しい羽黒山と相手の腹の肉を掴む程荒々しい取り口及び極端な直情・負けず嫌いの性格で鳴らした名寄岩が「水と油」の相性であったためという。それでいて双葉山の横綱土俵入りには両者が太刀持ち・露払いとして従えられていたため、<ref>両者が同じ大関同士であった時期には必然とこの2人が土俵入りの従者を務める運びとなった。</ref>両者にとっては始末が悪かったと言える。
* 腹が弱いために油の多い食べ物が大嫌いで、食べるとすぐに腹を壊したために[[中華料理]]は避けていた。また熱に弱く、37度程度の発熱で大騒ぎしたという。
* 戦前・戦後の[[優勝額]]を併せ持つ唯一の力士で、序ノ口から幕内まで各段の優勝経験も持つ(各段優勝は[[栃東大裕|玉ノ井]]も達成している)。