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'''はらたいら'''(本名:'''原 平'''、[[1943年]][[3月8日]] - [[2006年]][[11月10日]])は、[[東京都]][[文京区]][[小石川]]に居住していた、[[高知県]][[香美郡]][[土佐山田町]](現[[香美市]])出身の[[男性]][[漫画家]]、[[随筆家]]、[[タレント]]。[[血液型]][[ABO式血液型|B型]]。
 
== 略歴 ==
父・太郎、母・小夜子の長男として生まれる。姉の美和は元[[バスガイド]]。父・太郎は、たいらが生まれる前に[[結核]]で他界病死ガキ餓鬼大将としての逸話があを持っている。その逸話は後に「最後のガキ大将」という題で著書になり、後に「[[ガキ大将がやってきた]]」([[TBSテレビ|TBS]]系)というタイトル題名でドラマ化された。
 
[[高知県立山田高等学校]][[普通科 (学校)|普通科]]を[[1961年]]3月に卒業。在学中からナンセンス漫画の才能を発揮していたが、上京後は木賃宿を根城として作品を出版社に持ち込んでは断られる生活が続く<ref name="chizuko">[http://gansupport.jp/article/document/document01/3213.html 原ちず子さん(故はらたいら夫人の妻):闘病記:がんサポート]</ref>。生活苦から、高校の1級後輩の森本ちず子に生活費の援助を受け「俺はおまえのヒモだ」と自嘲していた<ref name="chizuko"></ref>。
 
[[1963年]]、『[[週刊漫画TIMES]]』([[芳文社]])の連載『新宿B·B(ベベ)』で[[デビュー]]。翌[[1964年]]森本ちず子と結婚。[[1972年]]『[[週刊漫画ゴラク]]』の連載『モンローちゃん』がヒットする。その後、[[1980年]] [[産経新聞|サンケイ新聞]]の『ルートさん』、[[1988年]] [[北海道新聞]]や[[中日新聞]]([[東京新聞]])、[[西日本新聞]]の各夕刊連載の『セロりん』、[[1981年]] - [[1983年]],[[1989年]] - [[1990年]] [[日本経済新聞]]連載の『ゲンペーくん』、[[沖縄タイムス]]の『グルくん』、[[公明新聞]]の『ポッコちゃん』、[[京都新聞]]の『パトロールのパトさん』、[[日刊ゲンダイ]]の『ゴシップちゃん』など、数多くの新聞漫画を手がける。
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また、[[落語]]愛好者には[[笑福亭鶴光]]の弟子の名付け親としても知られる。
 
[[1992年]]秋口から、[[更年期障害|更年期障碍]]による眩暈集中力低下を訴え連載を減らし闘病生活に。その時の一連の経過は、著書「はらたいらのジタバタ男の更年期」・「男も『更年期』がわかると楽になる」などに詳しい。また経験を生かし晩年は男性更年期障の講演も行った。
 
娘の[[原麻衣子]]は[[バレリーナ]](元[[スターダンサーズ・バレエ団]])である。[[正保ひろみ]]など、弟子筋の作家も輩出している。
 
[[2006年]][[11月10日]]、[[肝癌|肝臓ガン]]のためにより、[[埼玉県]][[富士見市]]の病院で死去。享年63。当初の死因は[[肝不全]]と伝えられたが、2006年9月に検査入院した際にもともと、元々[[肝硬変]]であった上に末期ガンであったことが判明したという。はらは生前、大の酒好きで知られていたため、訃報に接した[[大橋巨泉]]は「飲み過ぎたのかな」と語った。[[戒名]]は曼照院智徳道晃居士。はらの妻・ちず子が葬儀後に語ったところによると、はら自身は亡くなる前、医師の忠告を無視して酒を飲み続けた末の63歳の死について「不服はない。本望だ」と言っていたという。
 
故郷に程近い高知県[[南国市]]の「[[はらたいらと世界のオルゴールの館]]」([[後免町駅]]徒歩2分)では原画を含め作品を鑑賞することができた(2004年12月30日閉館)。