「田子ノ浦部屋」の版間の差分

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[[1998年]](平成10年)9月場所限りで引退して準年寄・久島海として出羽海部屋の部屋付き親方となり、1999年8月に[[年寄]]・[[田子ノ浦 (相撲)|田子ノ浦]]を襲名した田子ノ浦親方(元幕内・[[久島海啓太|久島海]])が、[[2000年]]2月1日付で出羽海部屋から分家独立し、[[さいたま市]]に田子ノ浦部屋を創設した。その後[[2003年]]12月には[[東京都]][[江東区]]へ部屋を移転した。
 
所属力士の四股名には、当初は師匠の現役時の四股名から1字取って「久」という字がよく使用されていたが、年は師匠の故郷である[[和歌山県]]の海の色に因む「碧」(あお)という字を使用するようになった。2011年7月場所には[[碧山亘右|碧山]]が部屋から初めてとなる関取に昇進し、今後の弟子育成が期待されていた。
 
しかし、[[2012年]]2月13日に師匠である田子ノ浦親方が急逝し<ref>田子ノ浦親方、46歳で急死 部屋で吐血 スポーツ報知 2012年2月13日閲覧</ref>、後継者の資格を有する部屋付きの親方もいなかったことから、部屋は閉鎖されることになった。残された8人の弟子たちは、[[出羽海部屋]](5人)と[[春日野部屋]](3人)に分割移籍した。同じ出羽海一門とはいえ、所属していた力士が2つの部屋に分かれて移籍する例は戦後初である。なお、力士たちの移籍する部屋が2つに分かれたのは、各力士たち個人の希望を尊重した結果であるという<ref>{{Cite news|url=http://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/f-sp-tp3-20120222-907390.html|title=田子ノ浦部屋の8力士、移籍先は2部屋|date=2012-02-22|accessdate=2012-02-22|newspaper=日刊スポーツ}}</ref>。