「マイソール王国」の版間の差分

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|元首等年代始2 = [[1760年]]
|元首等年代終2 = [[1799年]] (最盛期)
|元首等氏名2 = [[{{仮リンク|ハイダル・アリー]]|en|Hyder Ali}}、[[ティプー・スルタン]]
|元首等年代始3 = [[1940年]]
|元首等年代終3 = [[1947年]] (終代)
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===カーナティック戦争とハイダル・アリーの簒奪===
[[ファイル:Narasaraja Wadiyar II.jpg|thumb|right|200px|ナラサー・ラージャ2世]]
[[File:HyderAli.jpg|thumb|right|200px|{{仮リンク|ハイダル・アリー|en|Hyder Ali}}]]
 
その後、その息子[[ナラサー・ラージャ2世]](在位1704 - 1714)の治世、[[1707年]]に皇帝アウラングゼーブが死亡し帝国が衰退していくと、ムガル帝国の広大な領土は徐々に解体され、[[1713年]][[カルナータカ太守]]([[アルコット]]太守)が独立してカルナータカ地方政権が成立するなど、南インドはこれらをはじめとするいくつかの地方勢力が分立する形となり、マイソール王国もその主権から離れていった。
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また、17世紀、[[イギリス]]は[[マドラス]]に、[[フランス]]は[[ポンディシェリー]]にそれぞれ南インドに確立し、[[18世紀]]になると植民活動に乗り出そうとしていた。
 
[[1740年]]以降、カルナータカ地方政権で内紛がおこり、イギリス、フランスや現地勢力の争いと結び付き、[[1744年]]には南インドでは以降3次にわたる[[カーナティック戦争]](~[[1761年]])が勃発した。マイソール王国もこの戦争に参加し、第2次カーナティック戦争以降、王国のムスリム軍人である[[{{仮リンク|ハイダル・アリー]]|en|Hyder Ali}}が活躍した第2次、第3次カーナティック戦争では、ハイダル・アリーは王国の軍司令官の1人としてその天才的な軍事才能を発揮し、マラーター同盟やニザーム王国との戦いを有利に進め、マイソール王[[クリシュナ・ラージャ2世]](在位1733 - 1760)はハイダル・アリーを重用し、[[1759年]]に彼を王国の軍総司令官と宰相に任命した。
 
しかし、[[1760年]]にその失脚計画が露見したため、ハイダル・アリーはクリシュナ・ラージャ2世を宮殿に幽閉して王位を簒奪し、自ら新たに王(在位1760 - 1782)となり、ムスリム王朝を樹立した。翌[[1761年]]には、ムガル帝国の皇帝[[シャー・アーラム2世]]による王位の認可を受け、その正当性を確保した。一方、旧王家のウォディヤール家は家臣の地位に落とされ、[[1799年]]までの間その当主は新王朝の王によって選ばれた。
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*チャーマ・ラージャ7世(Chama Raja VII, 在位1732 - 1734)
*クリシュナ・ラージャ2世(Krishna Raja II, 在位1734 - 1760)
*{{仮リンク|ハイダル・アリー|en|Hyder Ali}}(Haidar Ali, 在位1760 - 1782)
*[[ティプー・スルタン]](Tipu Sultan, 在位1782 - 1799)
*クリシュナ・ラージャ3世(Krishna Raja III, 在位1799 - 1831)