「陳公博」の版間の差分

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共産党脱党後に渡米し、[[1925年]][[コロンビア大学]]で[[修士号]]を取得。帰国後に[[中国国民党]]に入党し、[[廖仲愷]]や[[汪兆銘]]と共に国民党左派として活動する。[[北伐]]が始まると[[蒋介石]]や汪と共に北上するが、一時蒋に反旗を翻し[[武漢国民政府]]に参加。武漢国民政府解散後は[[張発奎]]・[[李済深]]と共に抵抗を続けるが[[1927年]]には[[香港]]へ亡命する。翌[[1928年]]に[[上海市|上海]]へ赴くが、[[中華民国の歴史#南京国民政府期(1928~1949)|国民政府]]に対して反主流的な言動を取り続ける。
 
[[満州事変]]勃発後に蒋によって汪が行政院長になると実業部長を歴任するが[[1936年]]に汪が行政院長を辞任すると陳も閣外に去る。[[1938年]]に汪共々[[重慶市|重慶]]を脱出し、対日和平を模索。[[1940年]]に至って[[汪兆銘政権]]が成立すると[[立法院 (中華民国)|立法院]]長を務めると共に上海市長を兼任。[[1944年]]3月から政府主席代行、1211月に汪が死去すると政府主席・行政院長・軍事委員会委員長を兼任した。
 
戦後の混乱時に、支那派遣軍総参謀副長今井武夫少将に申し出て、一時的に[[日本]]へ身を寄せるが、国民政府の帰国要請で裁判を受けるため中国へ帰国する<ref>この間の事情は、みすず書房から発行の今井武夫『支那事変の回想』に詳述されている。</ref>。「南京偽政府を樹立し、中国国民の利益に反する行為を行なってきた」<ref>益井康一『漢奸裁判史』 P60</ref>との理由で[[1946年]][[4月12日]]に[[死刑]]判決を受け、6月3日[[蘇州市|蘇州]]で処刑された。