「ルートヴィヒ1世 (ヘッセン大公)」の版間の差分

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'''ルートヴィヒ1世'''('''<span lang="de" xml:lang="de">Ludwig I.</span>''', [[1753年]][[6月14日]] - [[1830年]][[4月6日]])は、[[ヘッセン大公国]]の初代[[大公]](在位:[[1806年]] - 1830年)。初めは[[ヘッセン=ダルムシュタット方伯領|ヘッセン=ダルムシュタット方伯]](ヘッセン=ダルムシュタット方伯としては'''ルートヴィヒ10世'''、在位:[[1790年]] - 1806年)。ヘッセン=ダルムシュタット方伯[[ルートヴィヒ9世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)|ルートヴィヒ9世]]とその妃であった[[プファルツ=ツヴァイブリュッケン公]][[クリスティアン3世 (プファルツ=ツヴァイブリュッケン公)|クリスティアン3世]]の公女[[ヘンリエッテ・カロリーネ・フォン・プファルツ=ツヴァイブリュッケン|ヘンリエッテ・カロリーネ]](1721年 - 1774年)の長男。[[バイエルン国王|バイエルン王]][[マクシミリアン1世 (バイエルン王)|マクシミリアン1世]]は母方の従弟に当たる。
 
1753年6月14日、ルートヴィヒ9世の第3子として[[プレンツラウ]]([[ブランデンブルク州]])で生まれる。1790年、ルートヴィヒ9世の死去によりヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ10世となる。
 
1776年に[[ヴュルテンベルク君主一覧|ヴュルテンベルク公]][[フリードリヒ2世オイゲン (ヴュルテンベルク公)|フリードリヒ2世オイゲン]]の長女[[マリア・フョードロヴナ (パーヴェル1世皇后)|ゾフィー・ドロテア]]と婚約する。しかし直後にルートヴィヒの妹で[[ツェサレーヴィチ|ロシア皇太子]][[パーヴェル1世|パーヴェル]]の妃[[ナターリア・アレクセーエヴナ]](ドイツ名ヴィルヘルミーネ)が亡くなり、後添いとしてゾフィー・ドロテアがパーヴェルと結婚することになったため、婚約は解消された。
 
1777年に従妹にあたる[[ルイーゼ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット (1761-1829)|ルイーゼ・ヘンリエッテ・カロリーネ]](1761年 - 1829年、ヘッセン=ダルムシュタット方伯[[ルートヴィヒ8世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)|ルートヴィヒ8世]]の次男[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット|ゲオルク・ヴィルヘルム]]の三女)と結婚し、五男一女を儲けた。
 
1790年、ルートヴィヒ9世の死去によりヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ10世となる。
 
ルートヴィヒ10世は[[1803年]]に[[ケルン大司教]]領であった[[ヴェストファーレン]]を併合し、1806年には[[ライン同盟]]に参加してヘッセン大公ルートヴィヒ1世となった。[[1815年]]の[[ウィーン会議]]ではヴェストファーレンを[[プロイセン王国]]に割譲したが、引き換えに[[マインツ]]を含む[[ライン川]]左岸の地域を獲得し、さらに同年成立した[[ドイツ連邦]]に参加した。
 
1830年4月6日、[[ダルムシュタット]]で死去。妃は従妹にあたる[[ルイーゼ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット (1761-1829)|ルイーゼ・ヘンリエッテ・カロリーネ]](1761年 - 1829年、ヘッセン=ダルムシュタット方伯[[ルートヴィヒ8世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)|ルートヴィヒ8世]]の息子[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット|ゲオルク・ヴィルヘルム]]の娘)で、彼女との間に生まれた息子の長男[[ルートヴィヒ2世 (ヘッセン大公)|ルートヴィヒ2世]]が大公位を嗣いだ。
 
{{先代次代|[[ヘッセンの統治者一覧|ヘッセン=ダルムシュタット方伯]]|1790年 - 1806年|[[ルートヴィヒ9世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)|ルートヴィヒ9世]]|(大公へ陞格)}}