「2006 FIFAワールドカップ日本代表」の版間の差分

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*[[ニュルンベルク]]で行なわれたクロアチア戦は、ともに初戦を落とした負けられない者同士の戦いになった。日本は前半21分に[[ペナルティキック|PK]]を与えたが、GK川口のファインセーブでピンチを逃れた。逆に後半6分に[[加地亮]]がオーバーラップから決定機を作ったが、[[柳沢敦]]が至近距離のシュートを外してしまった。その後も両チーム無得点のままスコアレスドローに終わり、グループ最下位の日本が決勝トーナメントへ進出するためには、ブラジル戦で最低でも「2点差以上の勝利」が必要となった。
*[[ドルトムント]]で行なわれたブラジル戦。2連勝してトーナメント進出を決めているブラジルに対し、後のない日本は不振の2トップを入れ替えて攻撃的なサッカーを展開した。前半34分、ゴール前に抜け出した[[玉田圭司]]が豪快なシュートを決めて先制。しかし、前半ロスタイムに[[ロナウド]]に同点ゴールを許し、後半8分には[[ジュニーニョ・ペルナンブカーノ]]に無回転ミドルシュートを決められ逆転される。その後も2点を追加され、1-4で敗れて2大会連続の決勝トーナメント進出はならなかった。
ブラジル戦から10日後の7月3日、中田英寿は現役引退を表明し、ブラジル戦がプロサッカー選手として最後の試合になった<ref>"[http://sportiva.shueisha.co.jp/contents/whattoday/2013/07/03/article51/ 今日は何の日? 中田英寿、HPで引退発表]". web Sportiva.(2013年7月3日)2013年10月18日閲覧。</ref>。
 
== 分析 ==
今回の代表メンバーは[[アトランタオリンピック|アトランタ五輪]]世代~[[黄金世代]]のタレントが成熟期を迎えており、海外で経験を積んだ選手も多くいた。前回のベスト16を越える好成績が期待されており、ジーコ監督は大会前に「ベスト4に入りたい」と目標を語っていた<ref>"[http://germany2006.nikkansports.com/japan/f-sc-tp4-20060427-0028.html ジーコ監督「ベスト4に入りたい」]". 日刊スポーツ.(2006年4月27日)2013年10月17日閲覧。</ref>。しかし、1分け2敗グループリーグ敗退という不本意な結果に終わり、[[ニューヨークポスト]]紙から「ワースト4位のチーム」に選ばれた<ref>"[http://allabout.co.jp/gm/gc/212113/ 屈辱。ジーコジャパンはワースト4位……]". All About.(2006年6月28日)2013年10月17日閲覧。</ref>。大会後には選手・スタッフの証言をもとに敗因の分析が行われた。
 
;環境・スケジュール
*ドイツでの宿泊地に選んだ[[ボン]]のホテルは一般客と同宿で、食事場所が陽の入らない地下にあるなど、長期滞在中にストレスの溜まる環境だった<ref>"[https://msc.sony.jp/member/mail/mysony/feature/20100520_2/ 元サッカー日本代表 福西崇史 presents 2010 FIFA ワールドカップ を10倍楽しむ集中講座!!]". My Sony Club.(2010年)2013年10月16日閲覧。</ref><ref>"[http://www.daily.co.jp/soccer/w_cup/10w_cup/article/2010/06/07/0003064022.shtml 岡田監督、必勝の3カ条!独の二の舞ゴメン]". デイリースポーツ.(2010年6月7日)2013年10月16日閲覧。</ref>。また、練習もジーコの方針により出場32カ国の中で唯一完全公開されており<ref>"[http://www.47news.jp/CN/200606/CN2006060801000299.html 手の内さらして最終準備 世界でも異色なジーコ流]". 47News.(2006年6月7日)2013年10月17日閲覧。</ref>、一部のファンから心ない野次を浴びることもあった<ref>『Number』2010年1月7日号、57頁。</ref>。宮本はボンで過ごしてみて初めて、2002年大会のような環境(喧騒から離れた旅館(葛城北の丸)を貸切りにして、練習は非公開)の重要性を感じさせられたという<ref>『Number』2010年1月7日号、56-57頁。</ref>。
*クロアチア戦後、ジーコは気温30度を越える午後3時キックオフの試合が2回続いたことに触れ、「サッカーはビジネスとなってしまった。選手が犠牲を払った部分がある」と述べた<ref>"[http://www.jsgoal.jp/news/jsgoal/00034359.html 【日本 vs クロアチア】試合終了後のジーコ監督コメント(06.06.19)]". J's GOAL.(2006年6月19日)2013年10月17日閲覧。</ref>。この2試合は2005年12月の組み合わせ抽選会後、テレビ放送の都合に合わせて開始時刻が変更されていた(ドイツの午後3時は日本の午後10時に相当する)<ref>"[http://germany2006.nikkansports.com/japan/jp051210-0068.html 豪、クロアチア戦の開始時刻を変更]". 日刊スポーツ.(2005年12月10日)2013年10月17日閲覧。</ref>。
 
;コンディション
*開幕2週間前の5月30日に開催国[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]]とテストマッチを行い、予想外に善戦して2-2で引き分けた(高原の2ゴールで一時は2-0とリードした)。[[日本サッカー協会|JFA]]テクニカルレポートではこの段階で「コンディションのピークを迎えてしまった」と分析されている<ref>[[宇都宮徹壱]] "[http://archive.sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/japan/column/200701/at00011992.html “総括”で隠されたもの(2/3) 第5回フットボールカンファレンスより]". スポーツナビ.(2007年1月10日)2013年10月16日閲覧。</ref>。6月4日に行なわれた最後のテストマッチでは、格下[[サッカーマルタ代表|マルタ代表]]を相手に締まりのない内容で1-0に終わり、本番前にチームの雰囲気が変わってしまった<ref>"[http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/soccer/shukyu/200906/CK2009061002000256.html <南アW杯企画>伝わらなかったジーコの真意]". 中日スポーツ.(2009年6月17日)2013年10月16日閲覧。</ref><ref>宇都宮徹壱 "[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/soccer/japan/2012/columndtl/201005290007-spnavi 元キャプテンが語る2006年の蹉跌 W杯招致アンバサダー、宮本恒靖インタビュー(後編)page1/2]". スポーツナビ.(2010年6月4日)2013年10月17日閲覧。</ref>。
*ドイツに来れなかった久保や田中誠のほかにも、大会中コンディションが万全ではない選手がいた。柳沢は2月に右足を骨折してから復帰間もなく、加地はドイツ戦で[[バスティアン・シュヴァインシュタイガー|シュバインシュタイガー]]のラフタックルを受けて初戦を欠場。坪井はオーストラリア戦で両脚けいれんのため途中交代。高原はブラジル戦で交代出場した6分後に負傷退場。中村は風邪による発熱が続いたが、ジーコは実績を信頼して3試合フル出場させた<ref>"[http://number.bunshun.jp/articles/-/12531?page=2 追跡インタビュージーコ 「いまこそ本心を語ろう」page2/2]". Number web.(2006年9月28日)2013年10月16日閲覧。</ref>。
 
;チームの内情
*ジーコは戦術について選手の自主的な判断に任せていたが、相手ボール時の守備の仕方(DFラインの位置)について、攻撃(海外組)と守備(国内組)の選手間の意見がまとまらなかった。オーストラリア戦では追加点を奪おうと攻め急ぐ前線から、ロングボールを警戒して後退する最終ラインまでの距離が間延びして、中盤に大きなスペースが生じた<ref>木崎『敗因と』、180-181頁。</ref>。
*レギュラーとサブメンバーの間にモチベーションの違いがあり、チームがひとつにまとまり切れなかった。ジーコはのちに週刊誌のインタビューで「腐ったミカンは周りにも悪影響を及ぼす<ref>"[http://www.j-cast.com/2007/03/20006306.html?p=all ジーコ暴露「腐ったミカン」 日本代表のだれだ?!]". .(2007年3月20日)2013年10月15日閲覧。</ref>」「“自分はどうせ控えだから”とふて腐れた選手は仲間を作り始める。結果、チームはひとつじゃなくなってしまった<ref>"[http://news.livedoor.com/article/detail/4323872/ ジーコ、ドイツW杯の敗因を明かした!]". Sports Watch.(2009年9月1日)2013年10月15日閲覧。</ref>」と述べた。今大会のメンバーには、前回大会における[[中山雅史]]や[[秋田豊]]、[[AFCアジアカップ2004|アジアカップ2004]]における[[藤田俊哉]]や[[三浦淳宏]]のような、ベンチからチームを鼓舞するベテランが不在だった(宮本は負傷離脱した田中誠がそのような役柄をできると思っていたと述べている)<ref>宇都宮徹壱 "[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/soccer/japan/2012/columndtl/201005290007-spnavi?page=2 元キャプテンが語る2006年の蹉跌 W杯招致アンバサダー、宮本恒靖インタビュー(後編)page2/2]". スポーツナビ.(2010年6月4日)2013年10月17日閲覧。</ref>。
*大会後、[[川淵三郎]]キャプテンは[[ロイター通信]]のインタビューにおいて「中田英寿は他の選手と交流を持つことができなくなっていた」と語った<ref>木崎『敗因と』、113頁。</ref>。現役最後のゲームとなったブラジル戦の試合後、ピッチに仰向けに倒れたままの中田を労ったのは、キャプテン宮本とチームスタッフ、ブラジル代表の[[アドリアーノ・レイテ・リベイロ|アドリアーノ]]([[パルマFC|パルマ]]時代の同僚)だけだった。
 
== ドイツ大会 日本代表登録メンバー&全試合出場メンバー ==
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== 参考文献 ==
* [[金子達仁]]/戸塚啓/木崎伸也 『敗因と』 光文社、2006年、ISBN 4334975127
* 『[[Sports Graphic Number]]』2010年1月7日号(通号744)
== 脚注 ==
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