「相模三浦氏」の版間の差分
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==概要==
[[鎌倉時代]]の[[宝治]]元年([[1247年]])に勃発した[[宝治合戦]]で、執権[[北条氏]]に[[御家人]]三浦氏一族は滅ぼされた。その後、三浦氏傍流である[[佐原氏]]出身の[[三浦盛時]]により家が再興され、執権北条氏の[[御内人]]として活動した。
[[元弘]]年間、[[足利尊氏]]が鎌倉幕府に対し兵を挙げる([[元弘の乱]])と、時の三浦氏当主[[三浦時継]]は子・[[三浦高継|高継]]と共に足利方について戦う。鎌倉幕府が滅び、建武政権が成立した後は、時継は相模国・武蔵国などの地頭となった。その後、時継は[[中先代の乱]]([[建武]]2年([[1335年]]))において北条方について処刑された。
[[南北朝時代_(日本)|南北朝の分裂]]以降は関東においても地域を二分する争いが頻発し、混沌とした時代となった。その中で高継・[[三浦高通|高通]]父子は、[[南朝 (日本)|南朝方]]の[[北畠顕家]]の軍勢によって鎌倉を追われた尊氏の子[[足利義詮|義詮]]を保護する([[延元]]3年([[1338年]]))など、基本的に[[北朝 (日本)|北朝方]]について活動した。だが、高通は[[観応の擾乱]]([[観応]]2年([[1351年]]))において直義方に属したうえ、直義が滅ぼされた後も[[新田氏]]らと結んで[[鎌倉府]]を脅かした([[武蔵野合戦]])。そのため、高通は鎌倉を奪回した尊氏により相模[[守護]]職を剥奪され追放されてしまい、三浦氏は一旦没落する。しかし、尊氏没後の貞治3年([[1363年]])に鎌倉公方[[足利基氏]]によって直義方の重鎮であった[[上杉憲顕]]が赦免されると、高通も赦されて再び相模国の[[守護]]となった。
[[室町時代]]中期、高通の孫にあたる[[三浦高明]]の代に[[上杉禅秀の乱]]([[応永]]23年([[1416年]]))に加担した事を理由に鎌倉公方[[足利持氏]]により相模守護職を奪われ、新しく守護となった[[扇谷上杉
その後の[[享徳の乱]]に始まる関東の争乱では、時高は扇谷上杉家の重臣として活躍し、三浦郡・鎌倉郡などを支配し相模国内に大きく勢力を拡げた。
時高は長らく嗣子に恵まれず、主君である[[扇谷上杉氏|扇谷]][[上杉持朝]]の次男・[[三浦高救|高救]]を養子としていた。しかし、後年実子[[三浦高教|高教]]が誕生すると高救やその子[[三浦義同]]と対立し、やがて両者を追放した。[[明応]]3年([[1494年]])[[9月]]、時高・高教父子は[[大森氏]]の支援を受けた高救・義同に居城[[新井城]]を攻められて滅亡し、義同が三浦氏の家督を奪った
晴れて三浦氏の当主となった義同は関係が悪化していた扇谷上杉家と和睦し、[[伊豆国|伊豆]]から日の出の勢いにあった[[伊勢盛時]](後の[[北条早雲]])に対抗する。盛時が扇谷上杉家の重臣・[[大森氏]]を[[小田原城]]から追放するという事件を起こすと、義同は大森氏を保護して盛時と戦うが、盛時の提案によって伊勢-扇谷上杉の間に和解が成立すると、義同も一旦は盛時と和睦する。しかし[[立河原の戦い]]([[永正]]元年([[1504年]]))以降、盛時と朝良は再び対立を起こし、朝良の傘下にあった義同も必然的に盛時と争うようになった。
永正10年([[1513年]])、盛時は遂に義同を討つべく大軍を以って攻勢を仕掛けた。これに対して三浦軍は防戦するも[[住吉城]]・[[岡崎城 (相模国)|岡崎城]]が相次いで陥落するなど奮わず、さらには頼みの綱であった扇谷上杉家の援軍も伊勢軍に
なお、[[安房]][[里見氏]]重臣・[[正木通綱]]を
== 歴代当主 ==
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* [[三浦高明]]
* [[三浦時高]]
* [[三浦高救]]([[扇谷上杉
* [[三浦義同]]
* [[三浦義意]]
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