「青山幸成」の版間の差分

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| 氏族 = [[青山氏]]
| 父母 = 父:[[青山忠成]]、母:[[天方通興]]の娘
| 兄弟 = [[青山忠俊|忠俊]]、'''青山幸成'''
| 妻 = 正室:[[小笠原信之]]の娘<br />側室:小出氏、福永氏
| 子 = '''[[青山幸利|幸利]]'''(長男)、[[青山幸通|幸通]](次男)<br />[[青山幸正|幸正]](三男)、[[青山幸高|幸高]](四男)<br />娘([[堀親昌]]継室)、娘([[水谷勝宗]]正室)<br />娘([[松平信久]]正室のち[[山口重直]]室)
| 特記事項 = 名は「ゆきなり」とも言われる
}}
'''青山 幸成'''(あおやま よしなり)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]、[[大名]]。[[遠江国|遠江]][[掛川藩]]主、[[摂津国|摂津]][[尼崎藩]]の初代[[藩主]]。[[郡上藩]]青山家初代。
 
== 経歴 ==
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[[寛永]]10年([[1633年]])2月3日、遠江掛川藩に2万6000石に倍増された上で移封される。寛永12年([[1635年]])7月28日には5万石に加増された上で摂津尼崎藩に移封された。幸成は藩政の基礎を確立するため、儒者を招聘して文学を奨励し、大庄屋制度を制定し、積極的な新田開発を行なって4000石を新開発した。寛永17年([[1640年]])には[[讃岐国|讃岐]][[高松藩]]主・[[生駒高俊]][[改易]]を伝える使者を務め、その後の寛永19年([[1642年]])4月の[[松平頼重]]の高松藩入封にも協力している。
 
しかし直後の8月から病に倒れた。寛永20年([[1643年]])1月には第3代将軍・[[徳川家光]]の見舞いを受けたが回復せず、次男の[[青山幸通|幸通]]、三男の[[青山幸正|幸正]]、四男の[[青山幸高|幸高]]にそれぞれ3000石、2000石、1000石を分与して青山3分家を創設した上で、2月16日に死去した。享年59。家督は長男の[[青山幸利|幸利]]が継ぎ、所領は弟に分与したため4万8000石となった
 
家督は長男の幸利が継ぎ、所領は弟に分与したため4万8000石となった。
 
== 関連項目 ==
* [[尼崎城]]
 
{{掛川藩主|青山氏||1633- 1635}}
{{尼崎藩主|青山氏|初代|1635- 1643}}
 
{{DEFAULTSORT:あおやま よしなり}}
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[[Category:江戸幕府老中]]
[[Category:江戸幕府旗本]]
[[Category:江戸の大名尼崎藩主]]
[[Category:譜代大名]]
[[Category:1586年生]]