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この際、直冬は九州を統治することではなくあくまで上京し尊氏・義詮を殺害することを目的としていたから、中国地方へ対する政治工作を活発に行なっており、直冬派が九州で崩壊した後も直冬は中国地方、特に[[長門国|長門]]と[[石見国|石見]]では勢力を保っていた。
 
正平9年/文和3年([[1354年]])には、桃井直常、山名時氏、[[大内弘世]]ら旧直義派の武将を糾合すると直冬は上京を開始する。正平10年/文和4年([[1355年]])には南朝と結んで京都を奪還する。しかし[[神南の戦い]]で主力の一角山名勢が導誉、則祐を指揮下に入れる義詮に徹底的に打ち破られ崩壊する。直冬は東寺に拠って戦闘を継続したが、義詮は奮戦し徐々に追い詰められてゆく。そして最後には尊氏が自ら率いる軍が東寺に突撃し直冬は撃破され敗走した。尊氏は東寺の本陣に突入したあと自ら首実検をして直冬を討ち取れたか確認しており、尊氏の直冬への憎悪の程が推察される。
 
直冬勢は結局このまま完全に崩壊し、直冬は西国で以後20年以上逼塞することになる。