「鳥尾小弥太」の版間の差分

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「息子」は自分の子に使う砕けた表現、「子息」は他人の子に使う硬い表現、「子」が誰の子にも使える普通名詞です
檄昂→激昂
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* 現在の[[東京都]][[文京区]]関口付近に本邸を構えていた鳥尾は、西側の鉄砲坂があまりに急坂で通行人の難渋する様子を実見し、私財を投じて坂道を開いた。感謝した地元の人々によって'''鳥尾坂'''と名づけられ、坂下には坂名を刻んだ石柱(文京区関口3丁目9と11の間)が残っている。
* 統一学舎を設立した鳥尾は、[[京都]]の別荘・一得庵に関西支部の設置を準備したものの、実現させることなく死去した。現在、旧別荘近くの[[高台寺]]内に同学舎による顕彰碑が建立されている。
* 幕末期、当時[[奇兵隊]]の陣屋であった法専寺([[山口県]][[下関市]]吉田)に駐屯していた鳥尾は、「我が国は神国であるにもかかわらず、[[仏教]]が年に盛んになって、石地蔵までが氾濫しているのはけしからん」として昂し、隊士を引き連れて境内にあった6体の地蔵の首を切り落としている。なお、現在は地蔵の首の中心に鉄棒を打ち込み、[[セメント]]で首をつないで補修がなされている。
*明治6年([[1873年]])の第六局長時代、「[[東京湾]]海防策」を建議して同湾を囲堯する沿岸の砲台建設を提言している。これにより同湾の富津沖に[[海堡]]の建設がなされた。
* [[日清戦争]]当時、日本軍の後背を脅かした[[清国]]騎兵に対抗するため、[[満州]]の[[馬賊]]への懐柔を献策している。結局、実現するには至らなかったものの、非正規兵であった馬賊に着目した点が注目される。