「オゴデイ」の版間の差分

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| 別号 = 哈罕皇帝、合罕皇帝、太宗、英文皇帝
| 全名 =
| 配偶者1 = {{仮リンク|ボラチン|zh|孛剌合真皇后}}、ムゲ、キョルゲネ、[[ドレゲネ]]
| 子女 = [[グユク]]、[[コデン]]、[[{{仮リンク|クチュ]]|zh|闊出}}
| 王家 = [[ボルジギン氏]]
| 王朝 =
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その後、オゴデイは父の覇業を受け継ぐべく積極的な領土拡大を行なった。[[1232年]]にはトルイの活躍で金の名将・[[完顔陳和尚]]率いる金軍を壊滅させ、[[1234年]]までに金を完全に滅ぼした([[第二次対金戦争]])。
 
さらに[[1235年]]、首都として[[カラコルム]]の建設を行い、同地で[[クリルタイ]]を開催。[[南宋]]方面とキプチャク草原から[[ルーシ]]・[[東ヨーロッパ|東欧]]に至る西方遠征の二大遠征と、あわせて[[モンゴルの高麗侵攻|高麗]]、[[カシュミール]]への遠征計画を決議した。南方遠征([[モンゴル・南宋戦争]])については、総司令として中央軍を三男の[[{{仮リンク|クチュ]]|zh|闊出}}(英語:{{lang|en|Khochu}})に任じて[[山西省|山西]]経由で南下させ、次男[[コデン]]率いる西路軍を[[陝西]]・[[四川]]方面へ派遣しこれを征服させた。[[1236年]]からは甥で[[ジョチ家]]の当主であった[[バトゥ]]を総司令官とし、功臣[[スブタイ]]を宿将としつつ長男[[グユク]]や[[トルイ]]家の当主[[モンケ]]など各モンゴル王家の後継者クラスの王族たちを派遣し、[[モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻|ヴォルガ・ブルガール]]、[[キプチャク]]、[[アラン人|アラン]]諸部族、[[カフカス]]北部([[:en:Mongol invasions of Georgia and Armenia]]、[[:en:Mongol invasions of Chechnya]])、[[モンゴルのルーシ侵攻|ルーシ諸国]]、[[モンゴルのポーランド侵攻|ポーランド王国]](ピャスト朝)、[[モヒの戦い|ハンガリー王国]]([[アールパード朝]])など東欧の大半までを制圧するに至った。しかし、南宋に送り出した遠征軍は、皇太子のクチュが陣中で没したために失敗に終わった。
 
内政面においては父時代からの大功臣・[[ウイグル|ウイグル人]]財務総監[[チンカイ]]や[[ヤラワチ|マフムード・ヤラワチ]]、[[耶律楚材]]らを重用し、全国に駅伝制を導入して領土が拡大した帝国内の連絡密度を高めた。また[[オルホン河]]畔に首都・カラコルムを建設し、農耕地、都市部の管轄のために中書省を設けた。しかし相次ぐ対外遠征や新首都建設などからの財政悪化、さらには急激に拡大しすぎた領土間の連絡が密に取れず、次第に帝国の一族間における分裂などが顕著になったこと、そして何よりも長男・グユクとバトゥの対立が決定的となって一族間に不和が生まれたことなどが、晩年の大きな癌となってしまった。
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オゴデイの皇后のうち、大ハトゥンは4人いたと考えられている。
;皇后
*{{仮リンク|ボラチン|zh|孛剌合真皇后}}(正宮 孛剌合真皇后)
*ムゲ(昂灰二皇后)
*キョルゲネ(乞里吉忽帖尼三皇后)チンギスから相続。
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*長男 [[グユク]]
*次男 [[コデン]]
*三男 {{仮リンク|クチュ|zh|闊出}}<ref>『[[集史]]』「オゴデイ・カアン紀」などによるとオゴデイ存命中に後継者とされたが、総司令として次兄コデンらとともに派遣された南宋遠征中に陣没(1236年2月)。オゴデイは後継者の地位をその遺児シレムンに与えたという。</ref> [[シレムン]]の父
*四男 カラチャル
*五男 カシ(カシダイ) [[カイドゥ]]の父