「フォッケウルフ Ta152」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Watson system (会話 | 投稿記録)
m →‎実戦: 槽との混同を防ぐために人名であることを示す、初出の場合はフルネームで、「ら」を(他)に
Watson system (会話 | 投稿記録)
60行目:
また、ヨーゼフ・カイル上級曹長は、 1945年2月21日の[[B-17_(航空機)|B-17]]撃墜を皮切りに、[[P-51 (航空機)|P-51]]、[[P-47 (航空機)|P-47]]各1機、[[Yak-9 (航空機)|Yak-9]]を2機撃墜し、Ta152で唯一の[[エース・パイロット|エース]]となった{{sfn|野原|2006|p=83}}<ref group = *>ただしこの文献では、Ta152に乗るまでに1機、B-17 1機、マスタング1機、機種不明5機、Yak2機とも読める。</ref>。{{sfn|野原|2009|pp=74-75}}他にも、僅かながら実戦に参加した機が、終戦までに戦果を記録している{{sfn|野原|2009|pp=74-75}}。また、敵機に撃墜されたTa152は存在しないとする文献もあるが{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=460}}、1944年7月にフランス人エースの[[ピエール・クロステルマン]]の操縦するスピットファイアが[[ガーン]]上空で撃墜したともいう{{sfn|坂本|2002|p=118}}。<!-- 手記が日本語版でも出版されているため、後日要確認。 -->
 
なお有名な逸話として次の様なものがある。終戦間際の頃、[[ベルリン]]南部の[[コットブス]]での会議に出席するため、クルト・タンクはTa152を操縦していた。その時、2機の[[P-51]]に遭遇してしまった。彼らに襲いかかられそうになった時、タンクは、水メタノール噴射装置を作動させた。するとTa152は急激に速度をあげ、P-51を完全に振り切ってしまったという{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=9}}。''田中義夫(他)''はこれはH-0型だったとしている{{sfn|田中|飯田|佐藤|2006|pp=26-27}}。長谷川 (2007) では、タンクは自身はあくまで民間人であるので戦闘はしない、との信条から逃走を選んだとしているが{{sfn|長谷川|2007|p=148}}、『栄光のドイツ空軍』では、タンクが自身を民間人と認識していると同時に、そもそもこの機体は武装はされていたものの実弾を搭載していなかったとされている{{sfn|成美堂出版編集部|2000|p=139}}。
 
== 究極のレシプロ戦闘機説 ==