「ブレーズ・パスカル」の版間の差分

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| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1623|06|19|1662|08|19}}
| death_place = {{FRA987}}・[[パリ]]
| school_tradition = [[ジャンセニスム]]<br />[[実存主義]]<br />[[反基礎付け主義]]の先駆
| main_interests = [[形而上学]]、[[認識論]]<br />[[心の哲学]]<br />[[人間学]]、[[倫理学]]<br />[[神学]]、[[宗教哲学]]<br />[[数学]]、[[論理学]]、[[確率論]]<br />[[自然哲学]]、[[物理学]]
| notable_ideas = [[パスカルの賭け]]<br />[[パスカルの三角形]]<br />[[パスカルの原理]]<br />[[パスカルの定理]]<br />幾何学的精神<br />[[パンセ]]<br />[[なぜ私は私なのか]]
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===最晩年===
パスカル自身は乗合馬車の創業6ヶ月後に、体調がいよいよ悪化し、死去。39年の生涯を閉じた。
<!--下記は誤情報では? " パスカル " はフランス人にはよくある苗字や個人名なので、どこかに "パスカルが~"と書いてあっても、本当にブレーズ・パスカルのことなのか、別人についての記述なのか、よくよく確認する必要がある。それと、パスカルの時代に"死後解剖"などということをしていたか、総合的な常識も働かせて原文をチェックするべき。{{要出典}}死後の解剖の結果、脳に挫傷があったという{{要出典}}。-->
 
{{要出典}}死後の解剖の結果、脳に挫傷があったという{{要出典}}。-->
 
死後、パスカルが病床で着ていた着物(肌着)の襟の中に、短い文書が縫い込められ、隠されているのが発見された。そこに書かれていたのは、彼自身が以前に体験した、回心と呼ばれる宗教的な出来事だった。
 
== 逆説的な思考哲学 ==
[[ルネ・デカルト]]流の哲学については、[[理性]]に関係する特定の分野でのそれなりの成果は認めつつも、神の愛の大きな秩序の元では、デカルト流の理性の秩序が空しいものであることを指摘した。<!--「哲学者・数学者の神」を認めなかった。-->また、「'''哲学を嘲り批判ばかにすることこそ本当に哲学することである'''」とする記も残している。それはパンセの断章番号4の部分である。
ブレーズ・パスカルは、[[神]]との[[主体]]的な出会いを重んじた。
 
{{Quotation| 幾何学。繊細。<br /> 真の雄弁は、雄弁をばかにし、真の道徳は、道徳をばかにする。言いかえれば、規則などない判断の道徳は、精神の道徳をばかにする。<br /> なぜなら、学問が精神に属しているように、判断こそ、それが直感に属しているからである。繊細は判断の分け前であり、幾何学は精神の分け前である。<br /> 哲学をばかにすることこそ、真に哲学することである。|パスカル|『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、11頁。}}
 
後述して「[[懐疑主義|懐疑論]]・[[確率論]]」の節に示すようにパスカルが懐疑論を重要視していることと関連するのことであるが、上述のようなパスカルの態度は、後[[19世紀]]に登場する哲学者[[フリードリヒ・ニーチェ]]以後の哲学史において[[現代思想|現代哲学]]の流れにある「[[反基礎付け主義]]」を基調とするいわゆる「反哲学の哲学」<ref>[[木田元]]による『反哲学史』([[講談社学術文庫]]、2000年)や『哲学と反哲学』([[岩波現代文庫]]、2004年)を参照。</ref>に共鳴し、またはそれに先駆的であると言われることがある<ref>例えば、[[白水社]]イデー選書版の邦訳『パンセ』(由木康訳)に載せられている解説において、その旨が書かれている。</ref>。また、ニーチェ自身の思索においても、パスカル思想への関心は強く、パスカルからの影響が見られる<ref>ニーチェは時代を問わず様々な哲学者を引用して検証するが、中でもパスカルからの引用は数が多く、パスカルの文言が多用されている。そのことは、[[國分功一郎]]の『暇と退屈の倫理学』([[朝日出版社]]、2011年)などにおいて言及されている。</ref>。
 
有名な「人間は考える葦である」とは、[[人間]]は[[自然]]の中では矮小な生き物にすぎないが、考えることによって[[宇宙]]を超える、というパスカルの哲学者としての宣言を表している。それは人間に無限の可能性を認めると同時に、一方では無限の中の消えゆく小粒子である人間の有限性をも受け入れている。パスカルにとって人間をひくきの葦に例えて記述した文章天使でも悪魔でも、哲学的倫理、道徳につて示した次の二つの断章である<!--単そこでは、時間や空間おける人間を「理性的な動物」と解す(《[[私]]》)の劣勢に対し、思惟におけことはできな人間(《[[私]]》)の優勢が強調されて-->
[[ルネ・デカルト]]流の哲学については、[[理性]]に関係する特定の分野でのそれなりの成果は認めつつも、神の愛の大きな秩序の元では、デカルト流の理性の秩序が空しいものであることを指摘した。<!--「哲学者・数学者の神」を認めなかった。-->また、「哲学を嘲り批判することこそが、本当に哲学することだ」とも述べている。
{{Quotation| 人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ねることと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。<br /> だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。|パスカル|『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、225頁。}}
{{Quotation| 考える葦。<br /> 私が私の尊厳を求めなければならないのは、空間からではなく、私の考えの規整からである。私は多くの土地を所有したところで、優ることにならないだろう。空間によっては、宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私が宇宙をつつむ。|パスカル|『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、226頁。}}
 
=== 懐疑論、確率論 ===
有名な「人間は考える葦である」とは、[[人間]]は[[自然]]の中では矮小な生き物にすぎないが、考えることによって[[宇宙]]を超える、というパスカルの哲学者としての宣言を表している。それは人間に無限の可能性を認めると同時に、一方では無限の中の消えゆく小粒子である人間の有限性をも受け入れている。パスカルにとって人間とは天使でも悪魔でもない。<!--単に人間を「理性的な動物」と解することはできない。-->
『パンセ』においては、主に[[懐疑主義|懐疑論]]や[[確率論]]を重要視した思索、人間考察が目立つ。また、「懐疑論は宗教に役立つ<ref>パスカル、『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、246頁。</ref>」としている特徴もある。確率論について言えば、「[[パスカルの賭け]]」などを含むいくつかの神学的な思弁において「'''懸けの必要性'''<ref>パスカル、『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、184~241頁。</ref>」を重要視していることは特筆すべき点である。また、懐疑論においては、その他、確実性や不確実性についての論理的な思弁がいくつも見られる。パスカルの懐疑論がどのようなものであったかについては、パスカルの論理における懐疑論の意味を示している文章からさしあたり以下の四つを参照する。
{{Quotation| 懐疑論。<br /> この世では、一つ一つのものが、部分的に真であり、部分的に偽である。本質的真理はそうではない。それは全く純粋で、全く真である。この混合は真理を破壊し、絶滅する。何ものも純粋に真ではない。したがって、何ものも純粋な真理の意味においては、真ではない。人は殺人が悪いということは真であると言うだろう。それはそうである。なぜなら、われわれは悪と偽とはよく知っているからである。だが、人は何が善いものであると言うだろう。貞潔だろうか。私は、いなと言う。なぜなら、世が終わってしまうだろうからである。結婚だろうか。いな。禁欲のほうが優っている。殺さないことだろうか。いな。なぜなら、無秩序は恐るべきものとなり、悪人はすべての善人を殺してしまうだろうからである。殺すことだろうか。いな。なぜなら、それは自然を破壊するからである。われわれは、真も善も部分的に、そして悪と偽と混じったものとしてしか持っていないのである。|パスカル|『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、242~243頁。}}
{{Quotation|真の証明が存在するということはありうる。だが、それは確実ではない。<br />だから、これは、すべて不確実であるというのは確実ではないということを示すものに他ならない。懐疑論の栄光のために|パスカル|『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、244頁。}}
{{Quotation| 懐疑論反駁<br />〔これらのものを定義しようとすれば、どうしてもかえって不明瞭になってしまうというのは奇妙なことである。われわれは、これらのものについて、いつも話している〕われわれは、皆がこれらのものを、同じように考えているものであると仮定している。しかしわれわれは、何の根拠もなしにそう仮定しているのである。なぜなら、われわれは、その証拠を何も持っていないからである。なるほど私は、これらのことばが同じ機会に適用され、二人の人間が一つの物体が位置を変えるのを見るたびに、この同じ対象の観察を二人とも「それが動いた」と言って、同じことばで表現するということをよく知っている。そして、この適用の一致から、人は観念の一致に対する強力な推定を引き出す。しかし、これは肯定に賭けるだけのことは十分あるとはいえ、究極的な確信により絶対的に確信させるものではない。なぜなら、異なった仮定から、しばしば同じ結果を引き出すということをわれわれは知っているからである。<br /> これは、われわれにこれらのものを確認させる自然的な光を全く消し去ってしまうというわけではないが、すくなくとも問題を混乱させるには十分である。[[アカデメイア]]の徒なら賭けたであろう。だが、これは自然的な光を曇らせて独断論者たちを困惑させ、懐疑論の徒党に栄光を帰させてしまう。その徒党は、この曖昧な曖昧さと、ある種の疑わしい暗さとのうちに、存するのである。そこでは、われわれの疑いもすべての光を除くことができず、われわれの自然的な光もすべての暗黒を追いはらうことができない。|パスカル|『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、246頁。}}
{{Quotation| 懐疑論者、[[ストア派|ストア哲学者]]、[[無神論|無神論者]]たちなどのすべての原理は真である。だが彼らの結論は誤っている。なぜなら、反対の原理もまた真であるからである。|パスカル|『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、247頁。}}
 
パスカルは、自身が[[実験物理学|実験物理学者]]としての側面を持っているからということもあるが、個別の事物事象、個別的な事例への観察から[[帰納]]的な思弁を行う哲学者であり、その結果、「パスカルの賭け」などを含めて実存主義的な思索を残した。そして、完全に明晰な真理とされるものをも懐疑し続けた。これは、同時代(17世紀)の思想を代表する合理主義哲学者[[ルネ・デカルト]]が、「'''明晰判断'''」を重視する[[演繹]]的な[[証明]]によって普遍的な概念を確立しようとしていたことと比較して対極的である。
== 徹底した禁欲主義の実践 ==
パスカルの実姉ジルベルトの『パスカル小伝』によると、パスカルの晩年の禁欲主義者としての徹底さがうかがわれる。彼は官能の快感、欲望の満足ということは、すべてこれを悪としてしりぞけ、ついには次のようなことまで決意し実行したという。毎度の[[食事]]は、きちんと一定の量をはかって決め、[[食欲]]の有無などには関係なく必ずそれだけを食べた。たとえ食欲があっても、絶対にそれ以上は口にせず、また逆に、食欲がなくても、必ずその量だけは食べた。満足させねばならぬのは[[胃]]であり、食欲ではない、というのがその理由のようだ。また食欲のみならず、一切眼を愉しませる余計物は不用といい、壁掛けなども撤去したという。さらに彼は常時内側に釘の出た[[ベルト (服飾)|ベルト]]を巻き、すべての心意をひたすら神のことに集中させようとしていた。気のゆるみなどを感じたとき、彼はベルトを肘で突いて、激痛で我に返るようにしたとのことである。死に近くなると、肉親や友人の愛情までも頑なに拒否したという。彼は生涯独身だったが、別の書簡では、結婚は一種の[[殺人]]、従って神殺しだとまで言い切っている。妻を愛する夫は、それだけ神を忘れ、神殺しにつながる、ということだったらしい。
 
== 著書 ==
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==主な日本語訳書==
* 『[[パンセ]]』 [[前田陽一]]・[[由木康]]共訳
*: [[中公文庫]] ISBN 4122000602新版がまたは[[中公クラシックス]]全2巻、2001年
**由木康単独の訳は白水社版などにおいて刊行されたことがある。
* 『パスカル 科学論文集』 [[松浪信三郎]]訳、岩波文庫
* 『パスカル 科学論文 メナール版 全4巻予定で2巻目まで刊行、 [[塩川徹也松浪信三郎]]ほか訳、[[白水社]]岩波文庫。
* 『パスカル全集 メナール版 34予定で2巻目まで刊行松浪信三郎[[塩川徹也]]ほか訳、[[人文書院白水社]]   
* 『パスカル 科学論文集』 [[全3巻、松浪信三郎]]ほか訳、岩波[[人書院]]。
* 『パスカル著作集』全7巻別巻2、[[田辺保]]ほか訳、[[教文館]]-別巻は研究論集と伝記。