「ハンス・フォン・ゼークト」の版間の差分

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=== 中華民国軍事顧問 ===
[[画像:Hans_von_Seeckt_Grabplatte.jpg|thumb|[[ベルリン軍人墓地]]にあるゼークトの墓]]
9月29日、蒋介石はゼークトと再会する希望を打電し、9月30日には正式にヴェッツェルの後任として顧問団長就任を要請する書簡を送った{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=40}}。ゼークトからこの報告を受けた[[コンスタンティン・フォン・ノイラート]]外務大臣はこの要請を断るように求めた{{sfn|田嶋信雄|2010|pp=51}}。ゼークトはこれに応じ、代わりに蒋介石の個人顧問として[[アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン]]、軍事問題の再編担当顧問として[[ヴィルヘルム・ファウペル]]を推薦することにした{{sfn|田嶋信雄|2010|pp=51}}。しかし蒋介石は断念せず、ヴェッツェルの倍額の報酬を提示し、正規の外交ルートをも使ってゼークトの就任を要請した。ここにいたって外務省も2、3ヶ月の視察旅行としてのゼークト訪中を許可した{{sfn|田嶋信雄|2010|pp=51-53}}。ゼークトは妻ドロテーをともなって1934年3月9日に出発し{{sfn|田嶋信雄|2010|pp=67}}、4月8日に上海に到着した{{sfn|田嶋信雄|2010|pp=67}}。
 
5月2日、ゼークトは蒋介石と会談し、国民政府軍の再編を委嘱された。ゼークトは主要な軍幹部と会談する権限を得、さらに蒋介石が不在の際の軍事指揮権をも委任された{{sfn|田嶋信雄|2011|pp=3}}。ゼークトは早速六個師団の編制を提案し{{sfn|田嶋信雄|2011|pp=3}}、蒋介石の厚い信任を得たが、一方で。しかし体調を崩して多病となり、一時は死を危ぶまれるほどであった{{sfn|田嶋信雄|2011|pp=3}}。一方でゼークトはクラインと広西派のプロジェクト支援継続されていたが、蒋介石の不興を買うこのプロジェクトを忌避するようになっていった{{sfn|田嶋信雄|2011|pp=15}}。しかしまたドイツ本国の国防軍・外務省が広西派との関係強化を進める中ではかっていたがゼークトはこれらの事実を蒋介石に伝えることを躊躇していた。蒋介石はこれらの事実を察知し、言及しないゼークトに対する蒋介石の不信は高まり、をかえって強めた。板挟みとなったゼークトは心身をすり減らしていった。ゼークトは1935年3月1日には顧問辞職の辞表を提出した{{sfn|田嶋信雄|2011|pp=28}}。蒋介石はこの辞表を受理はされなかったものの3ヶ月の帰国休暇を与えられた{{sfn|田嶋信雄|2011|pp=28}}。そのまま帰国したゼークトは、二度と中国には戻らず、顧問団の役割はファルケンハウゼンに受け継がれた。ゼークトの在任中に[[上海市|上海]]周辺に構築された防御陣地は「[[ゼークトライン]]」と称される。陣地は[[1937年]]の[[第二次上海事変]]の際には有力な防御拠点として期待されたが、それを裏切る格好で[[日本軍]]により攻略されている。
 
[[1936年]]4月、第67歩兵連隊([[:de:Kaiser Alexander Garde-Grenadier-Regiment Nr. 1]])の[[名誉連隊長]]に叙された。12月17日に[[ベルリン]]で死去した。