「ブレーズ・パスカル」の版間の差分

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| death_place = {{FRA987}}・[[パリ]]
| school_tradition = [[ジャンセニスム]]<br />[[実存主義]]<br />[[反基礎付け主義]]の先駆
| main_interests = [[形而上学]]、[[認識論]]<br />[[心の哲学]]<br />[[人間学]]、[[倫理学]]<br />[[神学]]、[[宗教哲学]]<br />[[数学]]、[[幾何学]]、[[論理学]]、[[確率論]]<br />[[自然哲学]]、[[物理学]]
| notable_ideas = [[パスカルの賭け]]<br />[[パスカルの三角形]]<br />[[パスカルの原理]]<br />[[パスカルの定理]]<br />幾何学的精神<br />秩序の三段階([[物体]]・[[精神]]・[[愛]])<br />[[パンセ]]<br />[[なぜ私は私なのか]]<br />[[5ソルの馬車]]([[公共交通機関]]の発明)
| influences = [[アウグスティヌス]]<br />[[ミシェル・ド・モンテーニュ]]<br />[[ルネ・デカルト]]<br />[[コルネリウス・ヤンセン]]<br />[[エピクテトス]]<br />その他多数
| influenced = [[フリードリヒ・ニーチェ]]<br />[[アントワーヌ・アルノー]]<br />[[ピエール・デュエム]]<br />[[ウィリアム・ジェームズ]]<br />[[ゴットフリート・ライプニッツ]]<br />[[レオン・ブランシュヴィック]]<br />[[アンリ・ベルクソン]]<br />[[実存主義]]<br />その他多数
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[[1654年]]、再度、信仰について意識を向け始め、ポール・ロワヤル修道院に近い立場からものを論ずるようになる。
 
[[1656年]]~[[1657年]]、『プロヴァンシアル』の発表。神の「[[恩寵]]」について弁護する論を展開しつつ、[[イエズス会]]の(たるんでしまっていた)道徳観を非難したため、広く議論が巻き起こった。また、[[キリスト教]]を擁護する書物(護教書)の執筆に着手。そのために、書物の内容についてのノートや、様々な思索のメモ書きを多数記した。だが、そのころには、体調を崩しており、その書物を自力で完成させることができなかった。ノート、メモ類は、パスカルの死後整理され、『'''[[パンセ]]'''』として出版されることになり、そこに残された深い思索の痕跡が、後々まで人々の思想に大きな影響を与え続けることになった。[[神]]の[[存在]]について確率論を応用しながら[[論理学]]的に[[思考実験]]を行った「[[パスカルの賭け]]」など、現代においてもよく知られているパスカル思想の多くが記述されている。ただし、パスカルはこの懸けにおいて、多くの哲学者や神学者が行ったような[[神の存在証明]]を行ったわけではない。神の存在は証明できなくとも神を信仰することが神を信仰しないことより優位であることを示したのである。
 
===5ソルの馬車===
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== 哲学 ==
[[ルネ・デカルト]]流の哲学については、[[理性]]に関係する特定の分野でのそれなりの成果は認めつつも、神の愛の大きな秩序の元では、デカルト流の理性の秩序が空しいものであることを指摘した。<!--「哲学者・数学者の神」を認めなかった。-->また、「'''哲学をばかにすることこそ、真に哲学することである'''」とする有名な記述も残している。それはパンセの断章番号4の部分である。それは以下に引用する。
 
{{Quotation| 幾何学。繊細。<br /> 真の雄弁は、雄弁をばかにし、真の道徳は、道徳をばかにする。言いかえれば、規則などない判断の道徳は、精神の道徳をばかにする。<br /> なぜなら、学問が精神に属しているように、判断こそ、それが直感に属しているからである。繊細は判断の分け前であり、幾何学は精神の分け前である。<br /> 哲学をばかにすることこそ、真に哲学することである。|パスカル|『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、11頁。}}
 
後述して「[[懐疑主義|懐疑論]]・[[確率論]]」の節に示すようにパスカルが懐疑論を重要視しているいう後述の「懐疑論・確率論」の節の内容と関連するのことであるが、上述のようなパスカルの態度は、後[[19世紀]]に登場する哲学者[[フリードリヒ・ニーチェ]]以後の哲学史において[[現代思想|現代哲学]]の流れにある「[[反基礎付け主義]]」を基調とするいわゆる「反哲学の哲学」<ref>[[木田元]]による『反哲学史』([[講談社学術文庫]]、2000年)や『哲学と反哲学』([[岩波現代文庫]]、2004年)を参照。</ref>に共鳴し、またはそれに先駆的であると言われることがある<ref>例えば、[[白水社]]イデー選書版の邦訳『パンセ』(由木康訳)に載せられている解説において、その旨が書かれている。</ref>。また、ニーチェ自身の思索においても、パスカル思想への関心は強く、パスカルからの影響が見られる<ref>ニーチェは時代を問わず様々な哲学者を引用して検証するが、中でもパスカルからの引用は数が多く、パスカルの文言が多用されている。そのことは、[[國分功一郎]]の『暇と退屈の倫理学』([[朝日出版社]]、2011年)などにおいて言及されている。</ref>。
 
=== 考える葦 ===
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{{Quotation| 人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ねることと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。<br /> だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。|パスカル|『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、225頁。}}
{{Quotation| 考える葦。<br /> 私が私の尊厳を求めなければならないのは、空間からではなく、私の考えの規整からである。私は多くの土地を所有したところで、優ることにならないだろう。空間によっては、宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私が宇宙をつつむ。|パスカル|『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、226頁。}}
 
=== 秩序の三段階 ===
先述した「考える葦」は物体に対する精神の偉大さを説いたものであり、その上、パスカルはそれよりもさらに小さな愛のほうが偉大であると説く。いわゆる[[物体]]・[[精神]]・[[愛]]という秩序の三段階であり、これは最も著名なパスカル思想の側面である。『パンセ』には、例えば次のような文章がある。
{{Quotation| 身体から精神への無限の距離は、精神から愛への無限大に無限な距離を表徴する。なぜなら、愛は超自然であるから。<br /> この世の偉大のあらゆる光輝は、精神の探究にたずさわる人々には光彩を失う。<br /> 精神的な人々の偉大は、王や富者や将軍やすべての肉において偉大な人々には見えない。<br /> 神から来るのでなければ無に等しい知恵の偉大は、肉的な人々にも精神的な人々にも見えない。これらは類を異にする三つの秩序である。|パスカル|『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、524頁。}}
{{Quotation| あらゆる物体、すなわち大空、星、大地、その王国などは、精神の最も小さいものにもおよばない。なぜなら、精神はそれらのすべてと自身とを[[認識]]するが、物体は何も認識しないからである。<br /> あらゆる物体の総和も、あらゆる精神の総和も、またそれらのすべての業績も、愛の最も小さい動作にもおよばない。これは無限に高い秩序に属するものである。<br /> あらゆる物体の総和からも、小さな思考を発生させることはできない。それは不可能であり、ほかの秩序に属するものである。あらゆる物体と精神とから、人は真の愛の一動作をも引き出すことはできない。それは不可能であり、ほかの超自然的な秩序に属するものである。|パスカル|『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、526頁~527頁。}}
 
=== 懐疑論、確率論 ===