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== 生涯 ==
ペンは[[バージニア州|バージニア]]、[[キャロライン郡 (バージニア州)|キャロライン郡]]にあるポートロイヤル近くで、モーゼス・ペンとキャサリン・テイラー夫妻の息子として生まれ、家庭内で教育を受けたので、公式の教育はほんの数年間受けただけだった。18歳のときに父親が死に、親戚の[[エドンド・ペンドルトン]]と共に法律を独学した。[[1762年]]にバージニアで弁護士となり、[[1774年]]にノースカロライナ、グランビル郡のウィリアムズボロに転居し、ここでも法律実務を行った(ウィリアムズボロは南北戦争後にグランビル郡から分かれて、現在[[バンス郡 (ノースカロライナ州)|バンス郡]]の一部である)。
 
[[1863年]][[7月28日]]、スザンナ・ラインと結婚した。夫妻には3人の子供が生まれた。長男のウィリアムは結婚しなかった。長女のルーシーは、エドンド・ペンドルトンから法律の鍛錬を受けた父のいない係累であるキャロラインの[[ジョン・テイラー (カロライン)|ジョン・テイラー]]と結婚した。
 
ペンは[[ノースカロライナ植民地]]議会議員に選ばれ、この議会によって[[1775年]]から[[1780年]]まで大陸会議代表に選ばれ、この時にアメリカ独立宣言に署名した。また[[1780年]]まで戦争委員会で務め、その後引退して法律実務に戻った。[[1777年]]、連合規約に署名したノースカロライナの者の一人となった。[[1784年]]にはノースカロライナの徴税吏となった。[[1788年]]に死んだとき、[[グランビル郡 (ノースカロライナ州)|グランビル郡]]のアイランドクリーク近くの地所に葬られたが、後の1894年に、代議員仲間であった[[ウィリアム・フーパー]]と共にギルフォード・コートハウス国立軍事公園に移葬された。