削除された内容 追加された内容
45行目:
 
===マックス・バウアー訪中と軍事顧問団の形成===
[[1926年]]、朱家&#x9A4A;は[[マックス・バウアー]]を招いて中国への投資の可能性について会談し、翌年広州を訪れたバウアーに蒋介石の軍事顧問になるよう依頼した。[[1928年]]秋、バウアーはドイツに戻り、中国の工業化に協力できる企業と、南京で蒋介石の常任顧問を引き受ける人物を探した。しかし、多くの企業は中国の政局が不安定であるため躊躇し、バウアーも[[1920年]]の[[カップ一揆]]([[:de:Kapp-Putsch|de]])<!--この訳は[[ヴァイマル共和政]]他にあるけど「一揆」っておかしくない?定訳なのかなあ。-->に加わっていたと疑惑をもたれたことや、また、ドイツの中国への直接軍事協力はヴェルサイユ条約に抵触するとの懸念もあり、招致は困難であったが、約30人の将校とともに、マックス・バウアーは中国に戻り、軍事顧問団を形成した<ref>阿羅健一『日中戦争はドイツが仕組んだ―上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ』小学館、2008年,28頁</ref>。これ以降、ドイツの最新兵器が中国にもたらされる。バウアーの[[国民政府]]への関与は、後の中独協力の基礎となる。
 
バウアーを団長とする軍事顧問団は、直ちに[[黄埔軍官学校]]の軍事教練に着手。バウアーは[[国民革命軍]]を縮小して少数精鋭部隊へと再編成を行った。翌1929年春には李宗仁らが蒋介石と対立した際には、軍事顧問団は、戦闘の指導を行った<ref>阿羅健一『日中戦争はドイツが仕組んだ―上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ』小学館、2008年,29頁</ref>。この作戦指導中、バウアーは天然痘にかかり漢口で死去、上海に埋葬された{{ref|Kirby-61}}。バウアー没後、[[ヘルマン・クリーベル]]中佐が顧問団長を継ぎ、1年五ヶ月間務めた。