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Yy719 (会話 | 投稿記録)
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== 経歴 ==
[[鹿児島県]][[大崎町]]出身。小学3年生の時に[[ソフトボール]]を始める。[[ソフトボール]]スポーツ少年団の監督の勧めで左打ちに転向した。その監督が[[福留孝介]]を育てた新留勝郎監督である。当時松山は[[捕手]]を務めており同チームの1学年下には[[榎田大樹]](現・[[阪神タイガース|阪神]])が在籍していた。中学時代は[[硬式野球]]部に入部し、[[鹿屋中央高等学校|鹿屋中央高校]]では1年生からエースで4番だった(甲子園には出場していない)。高校時代は猛練習が実を結び、3年時春には100mだった遠投が夏には123mにまで伸ばし、苦手だった[[50メートル競走|50m走]]の記録も春の6秒5から夏には6秒まで伸ばしている<ref>{{cite news|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/08kikaku/rookie/080117.html|title=ルーキーの挑戦 大学生・社会人4巡目 松山竜平外野手(22)九州国際大 |newspaper=中国新聞|publisher=中国新聞|date=2008-01-17|accessdate=2013-10-27}}</ref>。[[九州国際大学|九州国際大]]に進学し、1年春から出場。{{by|2007年}}6月の[[全日本大学野球選手権大会]]では、2回戦に[[早稲田大学野球部|早大]]の[[斎藤佑樹]]から二塁打を放ち注目された。4年間で[[首位打者]]2回、[[本塁打]]王1回、[[打点]]王3回に輝き、通算[[安打]]は122本で、[[九州六大学野球連盟|九州六大学リーグ]]の新記録を作る。大学通算打率.412、通算三振数は18(1試合平均0.24個)。[[福岡大学|福岡大]]の[[白仁田寛和]]投手とは、九州六大学野球のライバルであった。2007年11月19日の[[プロ野球]][[2007年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|大学生・社会人ドラフト会議]]で[[広島東洋カープ]]に4巡目で指名された。入団時の意気込みとして[[野球の背番号|背番号]]37を[[野球界の永久欠番|永久欠番]]にしたいと語り、登録名に関しても活躍後に“竜平”に変更したいと語った。同年11月26日に契約金5000万円、年俸1000万円(推定)で仮契約。
 
=== プロ入り後 ===
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2年目の[[2009年]]は春季キャンプの途中に肉離れでリタイア。4月に二軍に合流すると5月にはウエスタン・リーグの月間MVPを受賞する活躍を見せたが、その後の不調が響いて一軍出場はなかった。守備では三塁の守備に就く機会が前年の5試合から33試合に増えた。
 
[[2010年]]は主に一塁手としてウエスタン・リーグの試合に出場。前年に続き一軍出場はなかった。[[2010年]][[11月]]、大学時代に知り合った[[広島県]]出身の女性と[[結婚]]を発表<ref>[http://www.daily.co.jp/baseball/carp/2010/11/26/0003634795.shtml “コイのアンパンマン”松山が結婚!] - [[デイリースポーツ]]、2010年11月25日</ref>。すでに同年より、同居生活を送っており、[[12月12日]](この日は自身の入団会見の日にあたる)に[[入籍]]。[[2011年]]2月には第一子が産まれる予定であることを明かした。
 
[[2011年]]は岩本や天谷の不振で1軍昇格すると、[[6月9日]]の[[埼玉西武ライオンズ]]戦で[[涌井秀章]]から決勝打となるプロ初本塁打を放ってチームの連敗を10で止めた<ref>{{cite news|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/06/10/kiji/K20110610000989460.html|title=広島10連敗でストップ!松山プロ初弾でGに0・5差 |newspaper=スポニチSponichi Annex|publisher=スポーツニッポン|date=2011-06-10|accessdate=2013-04-28}}</ref>。[[7月5日]]の[[横浜ベイスターズ]]戦では初の3安打を放ち<ref>{{cite news|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/07/06/kiji/K20110706001153070.html|title=広島打線をけん引!4年目・松山が初の猛打賞|newspaper=スポニチSponichi Annex|publisher=スポーツニッポン|date=2011-07-06|accessdate=2013-05-09}}</ref>、結局この年は自己最多68試合に出場。打率.270、3本塁打の成績を残した。
 
[[2012年]]は前年度の活躍が評価され、オープン戦でチーム唯一の全試合出場。打率.403の好成績を残し、オープン戦の首位打者となった。この活躍で開幕を一軍で迎えた<ref>{{cite news|url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20120328-924617.html|title=【広島】マエケン、堂林、松山ら開幕切符|newspaper=nikkansports.com|publisher=日刊スポーツ|date=2012-03-28|accessdate=2013-05-08}}</ref>。ところがシーズンが始まると突如打てなくなり、一軍と二軍を往復する生活が続くも、[[8月21日]]の[[横浜DeNAベイスターズ]]戦では初の4番に座り<ref>{{cite news|url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20120821-1004240.html|title=【広島】初4番「空回り…」松山|newspaper=nikkansports.com|publisher=日刊スポーツ|date=2012-08-21|accessdate=2013-05-08}}</ref>、[[8月30日]]の[[東京ヤクルトスワローズ]]戦では4番としての初打点を挙げた<ref>{{cite news|url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20120830-1008926.html|title=【広島】松山が4番で初打点|newspaper=nikkansports.com|publisher=日刊スポーツ|date=2012-08-30|accessdate=2013-05-08}}</ref>。結局この年は打撃部門の全てで前年度を下回り、打率もあわや1割台と打撃不振に苦しむシーズンとなった。
 
== 人物 ==
[[ファイル:Nightgame-2014-ryuheimatsuyama-field.jpg|thumb|ナイター、2014年]]
 
*小学校3年の時に[[ソフトボール]]スポーツ少年団の監督の勧めで左打ちに転向した。その監督が[[福留孝介]]を育てた新留勝郎監督である。ちなみに当時松山は[[捕手]]を務めており、同チームの1学年下には[[榎田大樹]](現・[[阪神タイガース|阪神]])が在籍していた。
== プレースタイル・人物 ==
*高校3年の時の練習が実を結び、同年春には100mだった遠投が夏には123mにまで伸ばし、苦手だった[[50メートル競走|50m走]]の記録も春の6秒5から夏には6秒まで伸ばしている。(詳細は外部リンク中国新聞の記事を参照)
<!--プロ入り後もそうであるかが不明であるためコメントアウト。* 大学時代の[[愛称|ニックネーム]]は[[アンパンマン]]。3年生の時に先輩から付けられた。この愛称の由来は容姿だけでなく、チームがピンチに陥ったとき必ずバットで救ってきた事から付けられた。プロに入団しても「アンパンマンで僕の名前を覚えてくれるなら喜んで呼ばれたい。」とファンに呼びかけた。ホームのマツダスタジアムで打席に向かう際の出囃子も「アンパンマンのマーチ」である。-->
*同期で阪神のドラフト1位で指名された[[福岡大学|福岡大]]の[[白仁田寛和]]投手とは、九州六大学野球のリーグ戦で対戦したライバル。
*ドラフト指名を受け、直後の会見では所有していた牛を売って大学の学費を出してくれた祖父に感謝の意を述べながら感極まって大粒の涙を流した。
* 大学時代の[[愛称|ニックネーム]]は[[アンパンマン]]。3年生の時に先輩から付けられた。この愛称の由来は容姿だけでなく、チームがピンチに陥ったとき必ずバットで救ってきた事から付けられた。プロに入団しても「アンパンマンで僕の名前を覚えてくれるなら喜んで呼ばれたい。」とファンに呼びかけた。ホームのマツダスタジアムで打席に向かう際の出囃子も「アンパンマンのマーチ」である。
 
*ドラフト指名を受け、直後の会見では所有していた牛を売って大学の学費を出してくれた祖父に感謝の意を述べながら感極まって大粒の涙を流した。
*お立ち台でのまり文句は、「鹿児島のじいちゃんばあちゃん、俺やったよ!」である。
*入団会見の際、[[野球の背番号|背番号]]37について「[[野球界の永久欠番|永久欠番]]にします。何年先のことになるか分からないですけどね」登録名に関しても「最初は松山でいって、活躍してから“竜平”にできればいい」と語っている。
 
*お立ち台での極まり文句は、「鹿児島のじいちゃんばあちゃん、俺やったよ!」である。
* [[2010年]][[11月]]、大学時代に知り合った[[広島県]]出身の女性と[[結婚]]を発表<ref>[http://www.daily.co.jp/baseball/carp/2010/11/26/0003634795.shtml “コイのアンパンマン”松山が結婚!] - [[デイリースポーツ]]、2010年11月25日</ref>。すでに同年より、同居生活を送っており、[[12月12日]](この日は自身の入団会見の日にあたる)に[[入籍]]。[[2011年]]2月には第一子が産まれる予定であることを明かした。
 
== 詳細情報 ==