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{{main|旭日旗|軍旗#大日本帝国陸軍}}
[[1889年]](明治22年)[[10月7日]]、海軍旗章条例により[[大日本帝国海軍|帝国海軍]]の軍艦旗として十六条[[旭日旗]]を意匠とする旗が定められた([[大日本帝国海軍の旗章]]も参照)。なお、旭日旗(十六条旭日旗)自体は軍艦旗制定から遡ること19年前の[[1870年]](明治3年
以降十六条旭日旗は日本の軍艦旗として用いられたが、[[太平洋戦争]]敗戦による[[ポツダム宣言]]受諾後の海軍解体で軍艦旗は消滅する。その後、[[警備隊 (保安庁)|警備隊]]の創設に伴い、[[1952年]](昭和27年)に「警備隊旗」(中央に赤色の[[サクラ|桜花]]を配し、地は、青色の横縞7本及び同幅の白色横縞9本を描いたもの<ref>{{Cite web|url=http://www.mod.go.jp/msdf/hanshin/umi_room/umi_backup/unchiku_1.html|title=神戸海のウンチク話 第1回 「自衛艦旗について」|publisher=阪神基地隊:神戸海の小部屋|accessdate=2012-04-30}}</ref>
軍艦旗は、このように帝国陸軍の軍旗(連隊旗)と同様に考えられている側面もあるが、軍旗とは異なり国際法上の国籍を表示する機能が重要であることから扱いは異なっていた。帝国陸軍の軍旗は連隊の象徴として編成時に陸海軍の[[大元帥]]たる[[天皇]]から親授される為、再交付が原則許されず、損傷したり老朽化しても修理をしないことが多く、そもそもその連隊の軍旗が酷く損傷していればいる程、その連隊自体が歩んできた数多の戦いの確固たる伝統の証として、内外共に広く認証及び珍重されていた為、房だけになり旗自体の識別が困難なものも珍しくなかった。対して軍艦旗は風波で損傷が激しいため、消耗品として艦内に常に複数枚備えられていた<ref name="細谷1988.p.15">[[#細谷1988|細谷 1988]]、15頁</ref>(破損した軍艦旗は軍需部で交換された)。常に鮮明な旗が掲げられ、不備なく国籍確認が行われることを重視されていた。しかしながら軍艦旗自体は軍旗程ではなくとも尊崇される存在であり、艦艇の総員退艦・沈没時には軍艦旗降下を経て回収することが求められていた(「[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]」等)。
帝国海軍では、長期出動で補充が出来なくなった場合、補修用生地(アルパカ)で信号員が縫製した<ref name="細谷1988.p.15"/>。この作業のため、信号兵は航海学校教程で、軍艦旗および信号旗等の制作・補修の教練を受けていた<ref name="細谷1988.p.15"/>。さらに駆逐艦や潜水艦の場合は消耗が激しいため、降雨時は手製軍艦旗で代用している<ref>[[#大高2010|大高 2010]]、39頁</ref>。通常、軍艦旗の管理は、国旗や信号旗類と共に信号部が担当。公式使用時のみ、御写真の棒持と共に内務科が担当する<ref name="細谷1988.p.15"/>。軍艦旗には6種類(一幅半、二幅、三幅、四幅、六幅、八幅。一幅36cm)あり、艦種、式典によって掲揚する大きさが指定されていた<ref>[[#細谷1988|細谷 1988]]、18頁。以下使用区分も同じ。</ref>。
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