「水野忠之」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
1行目:
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 水野 忠之
| 画像 =
| 画像サイズ =
23行目:
== 生涯 ==
[[寛文]]9年([[1669年]])6月7日午前6時頃に
[[延宝]]2年([[1674年]])7月9日に親族の[[旗本
元禄12年([[1699年]])1月11日、実兄の岡崎藩主
元禄14年([[1701年]])3月14日に[[播磨国|播磨]][[赤穂藩]]主
また翌年12月15日、[[赤穂浪士]]が吉良義央の首を挙げて幕府に出頭した後には、そのうち[[間光興]]・[[奥田行高]]・[[矢頭教兼]]・[[村松高直]]・[[間瀬正辰]]・[[茅野常成]]・[[横川宗利]]・[[三村包常]]・[[神崎則休]]9名のお預かりを命じられ、彼らを三田中屋敷へ預かった。
[[大石良雄]]を預かった[[肥後国|肥後]][[熊本藩]]主
[[宝永]]2年([[1705年]])1月1日に[[奏者番]]に就任する。さらに[[正徳 (日本)|正徳]]元年([[1711年]])12月23日には[[若年寄]]に就任した。正徳4年([[1714年]])9月6日に[[京都所司代]]に就任する。このときに従四位下侍従和泉守に昇進した。
[[享保]]2年([[1717年]])9月27日、[[老中]]となり将軍[[徳川吉宗]]の[[享保の改革]]を支えた。享保7年([[1722年]])、財政を専任する勝手掛老中に任ぜられた。享保8年
隠居後は落髪して祥岳と号した。享保16年([[1731年]])3月18日に死去した。[[享年]]63。生前の遺命に基づいて牛込宝泉寺にて荼毘し、遺骨は24日に[[下総国]]山川万松寺へ送られて葬られた。
[[ファイル:Mizuno-kemmotsu-tei_ato_20061221_0077.jpg|thumb|rigtht|220px|[[水野監物邸跡]]]]
60行目:
== 参考文献 ==
*[[根岸鎮衛]]
{{岡崎藩主|水野氏|4代|1699年 - 1730年}}
67 ⟶ 68行目:
{{DEFAULTSORT:みすの たたゆき}}
[[Category:水野氏|たたゆき]]
[[Category:
[[Category:京都所司代]]
[[Category:江戸幕府若年寄]]
|