「中条満秀」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
参考文献
編集の要約なし
1行目:
'''中条 満秀'''(ちゅうじょう みつひで、生年不詳 - [[応永]]19年[[10月16日 (旧暦)|10月16日]]([[1412年]][[11月23日]]))は[[室町時代]]前期の武将。[[中条詮秀]]の子。[[室町幕府]][[奉公衆]]。[[三河国]][[高橋荘]]([[愛知県]][[豊田市]])[[地頭]]。衣城主。五郎、備前五郎と称す。官途は右衛門尉。左衛門少尉となった可能性もある。は[[中条満平詮秀]]。子は実名不詳の弟に[[中条左衛門少尉満平]]がいる
 
==略歴==
室町幕府第3[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]から[[偏諱|一字]]を賜り'''満秀'''と名乗る。『[[後鑑]]』に義満の供奉として[[康暦]]元年/[[天授 (日本)|天授]]5年([[1379年]])7月25日に登場するのが最初で、以降[[明徳]]3年/[[元中]]9年([[1392年]])8月28日まで幕府出仕の記録が見られる。既に家督を譲られていたと思われるが、応永19年([[1412年]])10月16日、父に先立って没する。生誕年不詳のため享年不明。子はまだ幼少であったらしく、彼の死後、弟の満平が中条家の家督を継ぎ惣領となった
 
息子たちはまだ幼少であったらしく、彼の死後、弟の[[中条満平|満平]]が[[中条家]]の家督を継ぎ惣領となった。その息子たちとは、[[中条左衛門少尉]](実名不詳)と、第4代将軍[[足利義持]]から1字を受けた[[中条持保]](もちやす)、[[中条持平]](もちひら)、[[中条持家]](もちいえ)とされている。
 
== 参考文献 ==