「朽木為綱」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
1行目:
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 朽木 為綱
| 時代 = [[江戸時代]]後期([[幕末]]) - [[明治時代]]
| 生誕 = [[弘化]]2年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]([[1845年]][[12月3日]])
17行目:
| 兄弟 = '''為綱'''、[[朽木蹇之助|蹇之助]]
| 妻 = 正室:[[米倉昌寿]]の娘・'''恒子'''<br/>継室:[[青山忠良]]の娘・'''郁子'''
| 子 = [[朽木綱張 (為綱の子)|綱張]]、[[朽木綱貞 (陸軍軍人)|綱貞]]、娘([[九鬼隆輝]]正室)、<br/>養子:''[[朽木綱鑑|綱鑑]]''([[松平宗秀]]7男)
| 特記事項 =
}}
 
'''朽木 為綱'''(くつき もりつな)は、[[丹波国|丹波]][[福知山藩]]の第13代(最後)の[[藩主]]。福知山藩朽木家14代。
 
== 生涯 ==
弘化2年(1845年)11月5日、第12代[[]][[朽木綱張]]の長男として生まれる。父が初めだっとしていた[[朽木紘綱|紘綱]]が早世したため嫡子となる。文久元年(1861年)3月15日、将軍[[徳川家茂]]に拝謁する。文久2年12月16日、従五位下伊予守に叙任する。[[慶応]]2年([[1867年]])4月17日、綱張が死去したため[[家督]]を継いで第13代藩主となる
 
慶応3年(1867年)12月13日、藩士を京都を派遣し、幕命により旧[[京都所司代]]邸の警備にあたる。慶応4年([[1868年]])1月の[[鳥羽・伏見の戦い]]では旧[[江戸幕府]]軍に合流しようとしたものの、幕府軍が敗退したため引き返した。そして、[[西園寺公望]]率いる山陰道鎮撫使に降伏した。2月6日、為綱は上洛し恭順の姿勢を示した。新政府から北越出兵、丹波・[[丹後国|丹後]]などの[[代官]]地・[[天領|幕府領]]などの接収を命じられた。2月24日、藩士の一部と旧幕府側との連携の疑いをかけられて、謹慎する。
 
明治2年([[1869年]])6月20日、[[版籍奉還]]により福知山[[知藩事|藩知事]]に任じられる。明治4年([[1871年]])7月15日の[[廃藩置県]]で免官となり、9月に[[東京]]に移った。明治5年([[1872年]])5月14日、[[養子]]の[[朽木綱鑑|綱鑑]]に家督を譲って[[隠居]]した。その後、福知山に戻って[[士族]]の救済にめた。明治11年7(1878年)7月27日、養子綱鑑の隠居により再び家督を継いだ。留学中の綱鑑の結婚に反対し、隠居させて実家に戻したのである。その後は富教会を設立して士族の救済を本格的にめたという。明治16年(1883年)4月26日に死去した。享年39。
 
実子に[[陸軍少将]]・[[子爵]]・[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員を務め、[[火薬]]の研究者としても有名な[[子爵]][[朽木綱貞 (陸軍軍人)|朽木綱貞]]がいる。
 
{{福知山藩主|朽木氏|13代|1867年 - 1871年}}
39行目:
[[Category:譜代大名]]
[[Category:幕末の大名]]
[[Category:日本の華族]]
[[Category:1845年生]]
[[Category:1883年没]]