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{{基礎情報 武士
|氏名=堀 親広
|時代=[[江戸時代]]末期([[幕末]]) - [[明治]]時代
|生誕=[[嘉永]]2年[[3月4日 (旧暦)|3月4日]]([[1849年]][[3月27日]])
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|兄弟=
|妻=正室:[[堀親義]]の養女([[堀親しげ|堀親寚]]の七女)
|子=娘<br>養子:'''''[[堀親篤|親篤]]'''''
|特記事項=
}}
'''堀 親広'''(ほり ちかひろ)は、[[江戸時代]][[幕末|末期]]の[[大名]]。[[信濃国|信濃]][[信濃飯田藩|飯田藩]]第12代最後の藩主。信濃飯田藩堀家13代。
 
== 生涯 ==
飯田藩堀家分家で2000石を領した[[旗本]]堀助次郎(力五郎とも)親郷の子として生まれたが、[[江戸幕府|幕府]]・明治政府へは飯田藩主[[堀親蔵]]の七男[[堀親表|主税親表]]の六男[[堀親因|英次郎親因]]の子として届け出られた。
 
[[慶応]]元年([[1865年]])11)、第11代藩主[[堀親義]]の養子となり、慶応4年([[1868年]])3月7日に養父親義の[[隠居]]に伴い[[家督]]を相続した。同年4月8日従五位下・美濃守に叙任される。明治2年([[1869年]])6月23日飯田[[藩知事|知藩事]]に任命され、明治4年([[1871年]])7月14日[[廃藩置県]]により免官となる。明治8年7(1875年)7月28日[[警視庁 (内務省)|警視庁]]十五等として出仕、同年9月22日権少警部に任命されるが、同年12月28日病気により権少警部を罷免となる。明治10年9(1877年)9月6日隠居し、養子の[[堀親篤|親篤]]([[細川興貫]]の次男)に家督を譲る。同年10月2日離籍。明治32年(1899年)7月30日没。
 
== 親広の実家について ==
[[堀直敬]]と[[村沢武夫]]はそれぞれ著書の中で「父は同族堀親因で、飯田の祖[[堀親良]]の三男[[堀親泰|親泰]]の曾孫にあたる」旨を記述しているが、『[[寛政重修諸家譜]]』によると、この「親良の三男親泰」は旗本2000石堀家の初代当主であるが、同家の4代当主[[堀親褒|親褒]]の三男に「親因、億三郎」という人物が記述されており、堀・村沢は共にこれを根拠とした可能性がある。しかし、
#親因は親泰の曾孫ではないし、その通称も異なる。
#親広の生年と比較しても年齢が離れすぎている。
#下記に掲載した文献には両が記述されたような文言が見当たらない。
これらのことから、両者の記述は誤りであると判断される。
 
== 参考文献 ==
*村沢武夫『飯田城主堀家』(1977年、伊那史学会)
*『華族明細短冊』(東京大学史料編纂所 蔵)
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*「堀氏系譜」(飯田市下伊那教育委員会蔵・堀家文書内)『長野県史』近世史料4(3)下伊那(1983同県)抄録
*「堀親広親族書控」(山岡章子蔵)堀直敬編著『堀家の歴史』(1967年、堀家の歴史研究会)所収
 
 
{{信濃飯田藩主|堀氏|12代|1868年 - 1871年}}
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{{DEFAULTSORT:ほり ちかひろ}}
[[Category:堀氏|ちかひろ]]
[[Category:信濃飯田藩主]]
[[Category:外様大名]]
[[Category:譜代大名]]
[[Category:幕末の大名]]
[[Category:日本の警察官]]