「最上川」の版間の差分

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Fujikawa Kazuto (会話 | 投稿記録)
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=== 近代治水整備 ===
最上川は中流部から下流部に掛けて[[最上峡]]や「三難所」のような狭窄部が続き、さらに激しく[[蛇行]]していた。加えて春季の[[融雪]]などで水量が豊富な上に河況係数(最大流量と最小流量の差。大きいと水害の危険が高い)が大きく、一旦大雨が降ると水害に悩まされた。だが直江兼続の石堤や最上義光の開鑿工事のほかは江戸時代を通じ大規模な治水事業は行われておらず、融雪洪水や豪雨・[[台風]]による水害が流域に度重なる被害を与えていた。<ref>中流域に位置する[[天領]]であった[[寒河江市]]の当時の記録によれば、洪水によって蛇行した流路を掘割によって直行させる「瀬替」や堤防築立と補強、川岸に杭を打つ「乱杭打」が郡中助合普請や自普請によってたびたび行われている。『寒河江市史』中巻p.589-590</ref>
 
明治時代に入ると、最上川にも欧米各国の近代河川工法が導入され、治水事業が本格的に実施されるようになった。契機となったのは[[1909年]](明治42年)4月の融雪洪水である。[[1919年]](大正6年)、[[内務省 (日本)|内務省]]による直轄改修計画がスタートしたが最大の懸案は最上川と[[赤川]]の分離である。山形県第2の河川である赤川はかつては[[酒田市]]で最上川に合流する最上川水系の支流であった。[[1921年]](大正10年)に「'''赤川放水路建設事業'''」が着手され、最上川に合流していた赤川は直接[[日本海]]に向かって分流させるようにした。赤川[[放水路]]は[[1936年]](昭和11年)に通水したが旧流路である旧赤川はそのまま最上川に注ぐ形で残された。
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*[[最上 (重巡洋艦)]] - 帝国海軍の[[最上型重巡洋艦]]の1番艦。1935年就役。
*[[もがみ (護衛艦)]] - [[海上自衛隊]]の[[いすず型護衛艦]]の2番艦。1961年就役。
*[[ギャグマンガ日和]] - 5巻83幕、タグ「目から最上川」
 
== 参考文献 ==