「ドイツ革命」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
OAJOJA (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
OAJOJA (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
71行目:
アイスナーはレーテを国制の基礎に置こうとしたが、中産階級や農民をレーテに取り込もうとしたため共産主義者から批判された。また、社会民主党などからの議会の設置要求を拒否できず、[[1月12日]]に選挙を実施した。その結果、独立社会民主党は180議席中3議席に留まった。アイスナーは首相在任のまま[[2月21日]]に暗殺された。
 
共産主義者はこの混乱に乗じて共産主義政権の樹立を目論むが、[[4月6日]]に無政府主義者の[[グスタフ・ランダウアー]]、独立社会民主党員の劇作家の[[エルンスト・トラー]]らが革命を起こした。トラー政権には[[自由貨幣]]の提唱者である[[シルビオ・ゲゼル]]が金融担当大臣として入閣していた。文学青年の集まりであった新政権は体制を維持できず、一週間後には[[スパルタクス団]]創設者の一人である[[オイゲン・レヴィーネ]]([[:w:Eugen Levine|Eugen Levine]])率いる共産主義者が革命を起こし、政権を奪取された([[バイエルン・レーテ共和国]])。モスクワのボリシェビキ政権はバイエルンの共産主義政権を革命の拠点になりうるとして高く評価した(この間16日に当時のヒトラーがレーテ代表代理に選ばれており、[[フライコール]]に捕えられてから連隊の告発委員会に参加し[http://ww1.m78.com/weimal/hitler%20at%20munich%20revolution.html]、[[カール・マイヤー]]によって反ボリシェヴィキ講習のあと[[ドイツ労働者党]]におくりこまれる)。[[5月1日]]にミュンヘンがドイツ政府軍の攻撃を受けたことで、バイエルン革命は終焉した(レヴィーネは捕らえられ、[[7月5日]]に処刑されている)。
 
革命以後はバイエルンで右翼勢力が支持されるようになり、ミュンヘンでの[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]結成につながっていく<ref>林(1976) 94頁 「5 ドイツ共産革命の失敗」 を参照。</ref>。