「日向 (日蓮宗)」の版間の差分

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== 対立 ==
日蓮の入滅時、不在であった日向・日頂を除く四老僧と居合わせた[[中老僧]]と合議した結果、日蓮の墓所を守ることにつき輪番制かれた。六老僧と中老僧12人、計18人でのによる輪番であったが、各僧とも各地での布教伝道に多忙を極め、一年に一度(3,6,7,8,9,12月は2人)の墓所輪番は大変な負担になっていたと思われる。このため、合議して決定したはずの輪番制が守られを実施することはなかっ、日蓮没後の早い段階で事実上崩壊した。当時、何らかの理由で日興を除く五老僧と南部實長とが義絶していたのも一因であることは否めない。
 
日興が南部實長を弁護する為に五老僧に送った書簡が現存している。もともとが、南部實長を教化したのがもともとは日興であったことや、日興が身延にほど近い富士地域一帯を本拠地としていたことから、次第に日興が身延に常住するようになった。当時の書簡によれば、出家し日円と名乗っていた南部實長は日興の身延常住を非常に喜び、日興に身延の別当職に就くよう要請している。しかし既に六老僧が輪番に合意して証文も作成したものの、他の五老僧は各地での布教に多忙であり、身延での輪番に消極的であったことから、日興は五老僧や中老僧に対し身延輪番に従事するよう盛んに呼びかけた。その呼びかけに漸く応じたのが日向であった。呼びかけに応じた日向は、[[1285年]]に身延山久遠寺に登った。日向の身延登山を日興と日円は大変喜んでいる。他の老僧は輪番の証文を無視し続け、日興の呼びかけにも応じない状況の中、日向は日円の要請により学頭職に就いた。輪番制に拘る日興としては、日向が学頭職に就いたことに不満を抱いていた上に、その後、軟風を宗祖の教義に持ち込んだとして日向と、また謗法行為に甘いとされる日向に影響を受けたとして日円と、それぞれ不仲が決定的となったため、ついに身延を離れた。これが現在まで続く日向派と日興派の争いの元となっている。
 
日興が身延を離山した後、日向は日円の要請により身延山の別当職に就いた。当時の日蓮遺弟達は日向が日円と懇意なのがよほど不快だったらしく、日昭と日朗とのやが遣りした書簡には、日朗が日昭から弟子を比叡山の戒壇で得度させても良いか相談を受けた、日朗が富士の戒壇で日興を戒師として得度させるべきであると助言し、身延の日向の法門は禅念仏にも劣ると書かれてしまっている。日朗は、日蓮入滅後富士重須の日興のもとを訪問しているが、身延の日向を訪問した記録は残っていないので、日向にはそれなりに教義上の軟風があると映ったのであろう。また日頂も真間中山を離れた後、身延の日向ではなく富士の日興のもとで重須談所設立に協力している。日頂の弟の日澄は日向の弟子だったにもかかわらず日向と義絶し富士重須談所の初代学頭に就任している。
 
日持は六老僧の1人ではあるが、もともと日興の弟子である。日持は日興から義絶されるが、その後身延の日向を訪ねることなく海外布教に出立する。一般に五一相対というと日興対五老僧であるが、文献によれば先ず日円対日興を除く五老僧の対立があり、その後日向対日興の対立が起こり、日円と日向が懇意になったため日向は他の四老僧とも対立し、結果日向対五老僧の対立になった。もちろん日興は日向以外の四老僧に対しても輪番の件や申し状の署名の件などで不満を募らせているので日興対五老僧の五一相対も確かにあった。しかしそれは、日興から五老僧に対しての一方的な不満であり、日向を除く四老僧から日興への不満はなかったと思われる。日興は日向・日持・日昭以外の二老僧日朗・日頂とは和解している。というよりは、むしろ頼られている。日昭・日持は日興に義絶されているが、日昭・日持が日興を批判している文献はないので、日昭・日持が日興に敵意を持っていたとは考えにくい。五老僧と和解できなかった日向は、身延山で日円と共に独自に弟子育成に励む。だが、[[朗門の九鳳]]や興門の本六新六に匹敵するような教線拡張に貢献した人物を輩出することができず、身延山興隆には行学院日朝や、もともと向門ではない重乾遠の三師など、傑僧の出現を待たねばならなかった。傑僧の出現により教団は成長し、それに伴い祖廟身延は日興派を除く日蓮門下すべての聖地となった。それでも江戸期までは、幕府の格付けによると京都六条本圀寺が日蓮系法華宗各派まとめての筆頭寺院であり、身延山は次点である。現在、身延山久遠寺は日蓮宗の総本山であり、日蓮宗以外の門下連合会に属する各宗派・団体も身延山を祖山と認め、日向は身延山法主第二祖とされている。