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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 松平 勝行 / 久松 勝行
| 時代 = [[江戸時代]]後期 - [[明治時代]]
| 生誕 = [[天保]]3年[[3月26日 (旧暦)|3月26日]]([[1832年]][[4月26日]])
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| 特記事項 =
}}
'''松平 勝行'''(まつだいら かつゆき)または'''久松 勝行'''(ひさまつ かつゆき)は、[[下総国|下総]][[多胡藩]]の第7代[[藩主]]
 
== 生涯 ==
天保3年(1832年)3月26日、第6代藩主[[松平勝権]]の長男として生まれる。[[嘉永]]元年([[1848年]])10月7日、父の[[隠居]]により家督を継いで第7代藩主となり、12月16日に従五位下・豊後守に叙位・任官する。
 
ところが嘉永2年([[1849年]])7月、[[江戸幕府|幕府]]より預かっていた罪人の[[神代徳次郎]]に脱走されるという態を犯した。神代は8月に[[京都]]で捕縛されたが、この失態により江戸[[町奉行]][[遠山景元]]によって12月19日に[[閉門]]処分に処され、家臣団も処罰の対象となった。さらに領地替の名目で領地を替えられて、実高において2000石の減封となった。嘉永3年([[1850年]])5月22日に閉門処分を解かれている。
 
[[安政]]2年([[1855年]])2月2日に[[大坂城|大坂]]加番に任じられ、[[文久]]2年([[1862年]])閏8月19日に[[二条城]]定番に任じられる。[[幕末]]期は九十九里直忠組の反乱鎮圧で功を挙げ、元治元年([[1864年]])7月21日に大蔵少輔に遷任する。[[慶応]]3年([[1867年]])4月に[[日光祭礼奉行]]に任じられた。
 
[[戊辰戦争]]時の慶応4年([[1868年]])2月、[[徳川将軍家]]との訣別を示すために姓を松平から久松に改めた。明治2年([[1869年]])6月の[[版籍奉還]]で多胡[[知藩事|藩知事]]に任じられるが、直後の8月に死去した。享年38。家督は長男の[[久松勝慈|勝慈]]が継いだ。
 
[[戊辰戦争]]時の慶応4年([[1868年]])2月、[[徳川氏]]との訣別を示すために姓を松平から久松に改めた。明治2年([[1869年]])6月の[[版籍奉還]]で多胡[[知藩事|藩知事]]に任じられるが、直後の8月に死去した。享年38。家督は長男の勝慈が継いだ。
 
{{田子藩主|久松松平氏|7代|1848年 - 1869年}}
 
{{DEFAULTSORT:ひさまつ かつゆき}}
[[Category:久松松平氏|かつゆき]]
[[Category:久松氏|かつゆき]]
[[Category:多胡藩主]]
[[Category:譜代大名]]
[[Category:幕末の大名]]