「織田常松」の版間の差分

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'''織田 常松'''(おだ じょうしょう、生没年不詳)は、[[室町時代]]の[[武将]]。[[管領]]・[[斯波氏]]の被官。[[尾張国|尾張]][[守護代]]。[[官位]]は[[伊勢国|伊勢]]守。常松は[[戒名|法名]]であり、[[織田教長]]の父である'''織田教信'''(- のりのぶ)と同一人物とされる。教信の「教」の字は同国[[守護]]の[[斯波義教]]より[[偏諱]]を受けたものである。
 
[[鎮守府将軍]]・[[藤原利仁]](またはその岳父・[[藤原有仁]])の一族と思われる[[藤原将広|藤原兵庫助将広]](または同一人物<ref>『清洲町史』掲載の織田氏推定系図</ref>もしくは同族)の子とされる。
 
[[尾張国|尾張]][[守護代]]は初めは[[甲斐氏]]が務めていたが、[[応永]]7年([[1400年]])頃、尾張[[守護]]でもあった管領・[[斯波義重|斯波義教]](義重)が尾張守護代・[[甲斐将教]](祐徳)を更迭し、織田伊勢守入道常松を新たな守護代に任じ、以後織田氏が尾張の守護代職を世襲するようになったといわれる。しかし、[[守護]]斯波義教を補佐するため、在京することが多く、弟と推定される一族の[[織田常竹|織田出雲守入道常竹]]が[[代官|又守護代]]として尾張を在地支配をしていたとされる。
 
[[醍醐寺]]座主・[[満済]]の日記(『[[満済准后日記]]』)によると、[[正長]]元年([[1428年]])8月6日、常松は病に侵され危篤状態にあったとされ、[[満済]]が常松の許に見舞いの使者を送った際、織田弾正という者が応対したという記述があり、この頃まで生存が確認される。『[[建内記]]』の[[永享]]3年([[1431年]])3月8日の条文には「織田故伊勢入道」とあることからこの間に死去したと思われる。
 
== 異説 ==
『前野家文書』「[[武功夜話]]」では、伊勢守入道常松と[[織田郷広]](教長の子とされる)を同一人物としてる。初名を「'''信広'''」と名乗り、尾張守護の[[斯波義郷]]の偏諱を受けて「'''郷広'''」と改めて織田氏の最初の尾張守護代となり、[[1398年]](応永5年)に尾張に入国したとある。しかし、この文書の信憑性については諸説あり、またこの当時斯波義郷は生まれておらず、その父である義教(義重)の代である。
 
== 参考文献 ==