「ハンニバル」の版間の差分

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ファビウスの消極戦法は次第に効果を発揮し、ハンニバルの行動は[[カンパニア]]領内に封じ込められるようになってきた。これに対してハンニバルは[[紀元前215年]]に[[アンティゴノス朝]]の[[ピリッポス5世]]とも同盟を結び、ローマを内外から圧迫してゆく。
 
[[画像:Isis priest01 pushkin.jpg|thumb|right|150px|スキピオの胸像]]
だがローマはハンニバルをイタリア半島に封じ込めながら、国外の敵対勢力を各個に撃破・無力化して行く。[[紀元前211年]]に[[スキピオ・アフリカヌス|プブリウス・スキピオ]]がハンニバルの本拠地であるイベリア半島を攻略し、またギリシアの[[アエトリア同盟]]と結託することで東方マケドニアのピリッポス5世の押さえとしている。
 
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[[紀元前207年]]、ハンニバルは再度北上してアプリア地方を制圧、ここでイベリア半島から西進する弟・[[ハスドルバル#ハスドルバル・バルカ|ハスドルバル]]の支援を待ったが、ハスドルバルはその途上に[[メタウルスの戦い]]で戦死してしまう。さらにハンニバルと行動を共にしていた弟・[[マゴ]]の[[リグリア]]攻略失敗、またピリッポス5世との連携の失敗などによって、南イタリアでの主導権回復の術を失う。このようにローマはハンニバルの指揮下にない敵対勢力を徐々に削り取っていった。
[[画像:Isis priest01 pushkin.jpg|thumb|right|150px|スキピオの胸像]]
 
ハンニバルがアプリア地方に封じ込まれる中、ローマではヒスパニアで功績を挙げたスキピオが攻勢に転じようとしていた。[[シチリア]]島を占拠した後、彼はそこを拠点にして志願兵を募り養成していたが、カンナエの戦いの失敗から攻勢への転換に踏み切れない元老院は、当初スキピオに渡航許可を与えなかった。曲折を経てようやく元老院の許可(実際は黙認であり、スキピオへの援助・援軍は約束されなかった)が出たスキピオは、軍勢とともにアフリカに渡航する。いきなりハンニバルを無視して本土に現れた敵にカルタゴ政府は驚き、[[ヌミディア]]王国の[[シュファクス]]率いる騎兵を援軍として戦うが敗北した。