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ボクシングの動きをヒントにしたオーバーアクションと奇声をあげる(例えば、見逃し三振の時に「ストラッキー!」と叫び、左足を上げてジャンプした後にボクシングのワンツーを繰り出す。本人いわく、見逃し三振時のアクションは5段階あったという)コールにより、名物審判員として人気を得た。露崎のジャッジ見たさにファンが球場に詰め掛けるほどで、その人気が頂点に達した[[1968年]]と[[1969年]]には、[[富士ゼロックス]]、[[東芝]]のCMにそれぞれ出演し、[[1974年]]には[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター]]出場を果たし、第1戦で球審を務めた(監督推薦で出場した[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]・[[高井保弘]]のオールスター史上初、代打逆転[[サヨナラホームラン]]が達成されている)。この試合で、露崎のアクションジャッジが[[セ・リーグ]]のファンの前で大々的に披露され、後楽園球場は試合中も、大勢のファンからの「あの審判は誰なんだ?」という問合せ電話が殺到したという。[[1968年]]には審判員交流制度により一年間セ・リーグの審判を務める(入替りに[[パ・リーグ]]に来たセ・リーグの審判には[[平光清]]・[[福井宏]]らのちの名物審判がいた)。一軍通算試合出場数1244、オールスターには通算2回(前述と[[1970年]]に出場している)。
 
しかしその一方で、人気が集まる露崎に対する他の審判員からの評判は芳しくなく、そしてアクションばかり優先され肝心なジャッジが疎かだということで様々な形で[[イジメ]]が行われた。[[1977年]]には、一軍出場機会が減り、同年49歳の若さで球界を去った(ちなみに氏が去った当時49歳という若さだった)。当時の審判部長・道仏訓は「ゼスチュアに気をとられすぎて、ストライクとボールをよく間違え、あまりにも各球団からクレームがつけられるので主審から外した。彼は10年世に出るのが早かったと思う」と話している<ref name="プロ野球 審判だけが知っている" />。引退後は品川総合福祉センターにて、福祉関係の業務に従事した。タイル貼り技能士の資格を取得したり、パチンコはプロ級の腕前であるなど、多芸の持ち主でもあった。
 
奇人と思われていたが、ファンに対する物腰は丁寧で、ナイトゲームの後などは1時間以上も少年ファン達にサインを行ったため、午前様になることも度々だったそうである。露崎のサインは独特の絵柄で有名だった。
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