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1954年から大阪・朝日アリーナのクラブに入り[[片山敏一]]と[[稲田悦子]]の指導を受けた。1956年末に[[山下艶子]]がコーチに転向すると知って難波に戻り、翌年4月の[[全日本フィギュアスケート選手権|全日本選手権]]で初優勝。この大会で日本人として初めて2回転[[ルッツジャンプ|ルッツ]]に成功した<ref>『君なら翔べる!』p. 242。なお、他のジャンプの日本人初成功は2回転ループが片山敏一、2回転アクセルが[[朽木久]]、2回転フリップが[[小塚憲子]]。出典同じ。</ref>。以来、山下のもとで全日本選手権10連覇を達成。<ref>『君なら翔べる!』pp. 20-21</ref>全日本選手権10連覇と優勝回数10回の記録は今でも破られていない。後に娘の有香も全日本選手権を制し、父娘で全日本選手権制覇という唯一の記録を持つこととなった。
 
[[1960年]][[スコーバレーオリンピック]]14位。佐藤にとってはこの大会が初めての国際競技会だった<ref>『君なら翔べる!』p. 24</ref><ref>戦後の世界選手権に日本選手団が派遣されたのは1951年ミラノ大会(有坂、稲田)と1957年コロラドスプリングス大会(男子は西倉幸男、杉田秀男、大橋和夫)の2回(1959年コロラドスプリングス大会にコロラド留学中の[[荒木祐子]]が出場)。これは出場資金がなかったことによる。『君なら翔べる!』p. 23</ref>。プログラムはスッペの「詩人と農夫」。5分ほどある曲を編集せずに使い、山下艶子が振付けたこのプログラムを、佐藤は8年間滑り続けた。衣装は蝶ネクタイをつけたモーニング風のもので、肩に日の丸をつけ、ズボンは競技用に特注されたものではないごくふつうのものだった<ref>『君なら翔べる!』pp. 47-48</ref>。
 
1962年[[世界フィギュアスケート選手権|世界選手権]]で初めてのヨーロッパの土を踏む(10位)<ref>『君なら翔べる!』p. 39, p. 45</ref>。後にスケーティングの指導で知られることになる佐藤だが、このときはローザンヌでヨーロッパ人の指導者から「フラットエッジで滑っている」と指摘されていた<ref>『君なら翔べる!』p.40</ref>。1963年世界選手権は日本スケート連盟の資金難に加え、日本男子の有力選手が佐藤しかいないため翌年のオリンピック出場枠を取りに行く必要もなかったことから自費参加を申し渡された。一度は出場を諦めたものの、在籍する関西大学が寄付金を集め、また兄が外務省と交渉するなどして出場することができた<ref>『君なら翔べる!』pp. 45-46</ref>。[[1964年]][[インスブルックオリンピック (1964年)|インスブルックオリンピック]]は8位。プログラムや衣装は4年前のスコーバレーオリンピックと同じだが、このころは衣装に伸びる生地が使用されるようになり、ズボンが改良されていた<ref>『君なら翔べる!』pp. 49-50</ref>。