「明石志賀之助」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
8行目:
|生年月日 = 不明
|没年月日 = 不明
|出身 = [[下野国]]宇都宮([[栃木県]][[宇都宮市]]?<ref>[[上総国]]久留里城下(現・[[千葉県]][[君津市]])出身という説もある。</ref>
|身長 = 約251.5cm
|体重 = 185kg
30行目:
|作成日時 = 2012年7月19日
}}
'''明石 志賀之助'''(あかし しがのすけ、生没年不詳)は、[[下野国]]宇都宮(現[[栃木県]][[宇都宮市]]出身の元[[大相撲]][[力士]]。
 
江戸時代前期に実在した人物とされ、[[日本相撲協会]]が2013年現在で初代横綱に認定している。従来の力技だけでなく相撲の技に関しても多く研究し、現在でも基本とされている[[四十八手]]の技を考案した人物とも言われている。
 
== 来歴 ==
[[下野国]]宇都宮(現[[栃木県]][[宇都宮市]]で、藩士・[[山内主膳|山内典膳]]の子として誕生する。幼名は'''鹿之介'''、身長は最盛期で八尺三寸(約251.5cm)、体重は185kgあったと伝わる。[[1624年]]に江戸・[[四谷]]塩町で初めて[[勧進]]相撲を興行したとされ、江戸勧進相撲の創始者とも言われている。その証拠となる[[番付]]が実在するとされていたが、後年になってその番付は「偽物」と否定された(番付は複数枚存在し、そのうち1枚は[[陣幕久五郎]]による創作だとされる)。
 
江戸以外も[[京都府|京]]・[[長崎県|長崎]]を始め、諸国で[[相撲]]を取って抜群の強さを誇ったとされる。京に上ってからは[[仁王仁太夫]]を倒したことで[[朝廷]]から「'''[[日下開山]]'''」の称号を受けたとされ、これが初代横綱の根拠とされたらしい。
41行目:
[[1900年]]に陣幕久五郎が引退した直後、[[富岡八幡宮]]に建立された[[横綱力士碑]]に歴代横綱を列挙した時、初代横綱として明石志賀之助の[[四股名]]を刻んだ。
 
明石によって最初に行われたとされる、相撲に関する出来事や慣習も、全て後代の伝承や講談によるもので信憑性がかなり低く、さらには信頼できる資料では明石の実在すら確認されたことが無い。[[池田雅雄]]は「歴代横綱正伝」(ベースボール・マガジン社『相撲』1971年1月号以下)などで明石の実在を否定しており、[[能見正比古]]は『横綱物語』(講談社 1975年)で「モデルとなる『明石』なる力士が複数存在していた」という説を述べている。
 
== 脚注 ==