「富岡定俊」の版間の差分

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[[ファイル:Umezu.jpg|thumb|250px|降伏文書調印式に出席する富岡(日本代表の2列目右端)]]
'''富岡 定俊'''(とみおか さだとし、[[1897年]][[3月8日]] - [[1970年]][[12月7日]])は、[[広島県]]出身の[[大日本帝国海軍|海軍]][[軍人]]、[[華族]]。最終階級は[[海軍少将]]。[[男爵]]。
 
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終戦を受けて皇統を守ることを考えた軍令部第一部長の富岡は、[[皇統護持作戦]]を[[豊田副武]][[軍令部|軍令部総長]]と[[米内光政]][[海軍大臣]]から了承を取って、高松宮宣仁親王から同意を得て、大金益次郎宮内次官と協議するように指示された。有力者[[平泉澄]]博士からも協力を取り付けた。大金は具体策は海軍に任せた。匿う場所は[[土肥一夫]]中佐から[[熊本県]][[五箇荘]]が提案された<ref>秦郁彦『裕仁天皇五つの決断』講談社102-103頁</ref>。1945年8月17日軍令部で富岡は、[[第七二一海軍航空隊|721航空隊]]司令[[岡村基春]]大佐と[[第343海軍航空隊|343航空隊]]司令[[源田実]]大佐に皇族を匿う皇統護持作戦を命令する。岡村大佐と源田大佐で別々に人員を選抜し拠点の構成を行うように指示した。万般にわたって[[横井俊之]]参謀長が面倒をみる、匿う皇族をだれにするかは直前で決める、皇女の可能性もある、期間は無期限のつもりの覚悟でと説明した<ref>秦郁彦『裕仁天皇五つの決断』講談社108頁、神立尚紀『戦士の肖像』文春ネスコ229頁</ref>。しかし天皇制存続が決まり、富岡も終戦から2年ほどして作戦の解消を伝えた<ref>秦郁彦『裕仁天皇五つの決断』講談社152頁</ref>。また、1945年8月18日富岡は[[豊橋海軍航空隊|701空]]司令[[榎尾義男]]大佐に地下組織の結成も命じた。榎尾は約3800人で橘殉皇隊を結成。天皇、国体に危険が迫ったとき決起してゲリラ戦に移ることを目的としたが、情勢の好転で自然消滅した<ref>秦郁彦『裕仁天皇五つの決断』講談社274-275頁</ref>。
 
[[ファイル:Umezu.jpg|thumb|250px|降伏文書調印式に出席する富岡(日本代表の2列目右端)]]
1945年9月[[アメリカ海軍]]の[[戦艦]][[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]で行われた[[降伏文書]]調印式には随員として参加。