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'''岩手毎日新聞'''(いわてまいにちしんぶん)は、[[岩手県]][[盛岡市]]紺屋町に発行所をもっされていた[[地方紙|地方新聞]]である。[[1899年]](明治32年)創刊、[[1933年]](昭和8年)4月廃刊。発行所は[[盛岡市]]紺屋町に所在した
 
現在の[[毎日新聞]]とは無関係である。
 
== 歴史 ==
[[1899年]](明治32年)、高橋嘉太郎(県議・代議士)の創立になり、のちに[[古河機械金属|古河鉱業]]会社(当時、[[原敬]]が副社長)よりの資金の援助により、[[陸中銀行|旧岩手銀行]]頭取の中村省三が社主となった。</br>
 
この当時は[[岩手日報#沿革|旧岩手日報]]に匹敵する購読者をかち得たが、相当辛辣な記事をもって、日報とは対照的であった<ref name="県史10-1">(岩手県)岩手県史10 P.672-673</ref>。
 
大正時代には主筆として[[岡山不衣]]が在籍し、その時代に投稿された[[宮沢賢治]]の詩(「外輪山」)や童話(「[[やまなし]]」「氷河鼠の毛皮」「[[シグナルとシグナレス]]」)が掲載されている。
 
当時の岩手県の新聞は岩手毎日新聞が中村家が率いる旧岩手銀行(現在の[[岩手銀行]]とは別資本)、旧岩手日報が[[金田一国士]]率いる盛岡銀行がバックであった<ref name="ogawa">小川功「機関銀行と機関新聞」、『彦根論叢』No.326([[滋賀大学]]経済学会、[[2000年]])[http://libdspace.biwako.shiga-u.ac.jp/dspace/bitstream/10441/1096/2/326ogawa.pdf]</ref>。この二つの資本グループの対立は、系列下の新聞を使った相手への非難中傷に発展し、1925年に金田一国士は自身と盛岡銀行に対する中傷で岩手毎日新聞を告訴、最終的に主筆の福田祐英が科料10円の判決を受けている<ref name="ogawa"/>。
 
しかし、[[1931年]]に発生した金融恐慌により旧岩手銀行が破綻に追い込まれたことで発行のバックを失い、当紙は1933年4月に廃刊となった。
 
== 参考資料 ==
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== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 関連項目 ==
*[[岩手日報]]
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== 外部リンク ==
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{{DEFAULTSORT:いわてまいにちしんふん}}
[[Category:日本の新聞 (廃刊)]]