「ハロルド・マクミラン」の版間の差分

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[[ファイル:MacMillian and Kennedy in Key West March 1961.jpg|250px|サムネイル|[[キーウェスト]]で会談するマクミランとケネディ]]
外交面では、マクミランはイギリスが大英帝国の夢を捨てて、「小英国」として[[ヨーロッパ]]の一員に相応しい路線を模索した。イギリスの[[欧州経済共同体]](EEC)加盟を策するも[[シャルル・ド・ゴール]]に拒否され実現せず、結局[[1960年]]に[[欧州自由貿易連合]](EFTA)を発足させた。またスエズ危機で冷えこんだアメリカとの関係修復にも力を注ぎ、[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]大統領とは[[マーガレット・サッチャー|サッチャー]]・[[ロナルド・レーガン|レーガン]]時代並みの親しい親交を結んだ。マクミランは第二次大戦中に北[[アフリカ]]総督代理を務めており、ヨーロッパ戦線の最高司令官だったアイゼンハワーとは旧知の仲で非常にウマがあったという<ref>黒岩徹『イギリス現代政治の軌跡』丸善ライブラリー、1998年 p57</ref>。さらに、[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]]大統領とは親子ほど年齢が違う間ではあったが非常に緊密な関係を保った<ref>マクミランの妻ドロシーは第9代[[デヴォンシャー公爵]]ヴィクター・キャヴェンディッシュの三女であり、長兄の第10代デヴォンシャー公爵エドワードの長男・ハーティントン侯爵ウィリアム(マクミランから見れば義理の甥)は、ケネディ大統領の姉キャスリーンと結婚しており、縁があった。</ref>。[[1960年]]のアフリカ訪問時に有名な「いまや変革の風がこの大陸を吹きぬけている」という演説を行い、アフリカの英領[[植民地]]の独立を促すとともに[[南アフリカ]]の[[アパルトヘイト]](人種隔離政策)を批判した。
 
内政面では、マクミランも戦後の保守党がとった[[市場経済]]と[[計画経済]]の混合した[[混合経済]]を志向してイギリス国内の経済危機を乗り切ろうとし、[[1959年]]の総選挙で保守党を勝利に導いた。しかしその後は[[インフレーション]]と[[失業]]率が昂進し、確実に[[イギリス病]]が国内経済を蝕んでいったことは否めない。[[1963年]]、[[プロヒューモ事件]]の責任を取って総辞職した。