「インノケンティウス3世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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また、[[イベリア半島]]で[[レコンキスタ]]の進行が思わしくない事からキリスト教国家に一致団結を呼びかけた。これが功を奏し、[[1212年]]にキリスト教諸国は[[ナバス・デ・トロサの戦い]]で[[ムワッヒド朝]]に大勝、以降はイスラム勢力に対して優位に立つ。
 
[[1202年]]にはイスラム勢力の中心だった[[アイユーブ朝]]で[[アルアーディル]]が即位して反撃の兆しが見えたため、[[第4回十字軍]]を提唱する。しかし軍費が足りなかったために遠征ができず、キリスト教徒の町であるツァラを襲い占領して略奪を行なった。これに激怒した教皇は十字軍を全て破門したが、この十字軍に[[東ローマ帝国]]の内紛もからんで[[1204年]]に東ローマ帝国は十字軍によって滅ぼされ、[[ラテン帝国]]が建国されてしまう事になった(半世紀後に東ローマ帝国は復興した)。また[[少年十字軍]]の悲劇が起こったのも、この教皇の時代である。
 
後半期に入ると教皇は西欧諸国で異端と見られる教徒が多いとしてフランス南部に[[アルビジョア十字軍]]を派遣して弾圧したりしている(これは没後の[[1229年]]まで継続)。{{独自研究範囲|date=2012年3月|このように教皇権の優位を示した反面、後半期では十字軍の暴走などその権勢に翳りが見え始めたのである。}}