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'''臼井荘'''(うすいのしょう)は、[[下総国]][[印旛郡]]内に[[平安時代]]末期から[[室町時代]]にかけて存在した荘園。[[千葉常重]]の弟[[臼井常康|常康]]が始祖とされる[[臼井氏]]名字の地でもある。
 
荘域は現在の[[佐倉市]]西部[[鹿島川 (千葉県)|鹿島川]]左岸域、[[千葉市]]北端部、[[四街道市]]全域、[[八千代市]]北端部域、[[船橋市]]北端部域がそれそれ含まれる[[印旛沼]]西南方一帯に及ぶ<ref>『佐倉市史』、『八千代市の歴史』、『船橋市史』前編より</ref>。[[荘園領主]]及び荘の成立の成立事情は不明であるが、常康が臼井の地に封じられたのが[[平安時代]]末期の[[11世紀]]末<ref>『[[千葉大系図]]』、『[[臼井中興記]]』、『[[臼井家伝]]』</ref>であることから荘の成立時期もその前後と推測される。『[[吾妻鏡]]』などには[[臼井城]]を本拠とする臼井氏が[[源頼朝]]、[[鎌倉幕府]]の[[御家人]]として幕府の諸行事に忠勤している様子が書かれているほか、[[宝治]]元年([[1247年]])に起きた[[宝治合戦]]の折に[[三浦氏]]に加担、この乱を境に一族が分裂し一時臼井氏勢力が衰退。その間[[千葉常胤]]の三男[[武石胤盛|胤盛]]を祖とする[[武石氏]]の台頭を招き、旧下[[志津村]]、旧[[大和田町 (千葉県)|大和田村]]、旧[[犢橋村]]より西方がその勢力下となったことがわかっている。荘の西部半分にあたる[[島田]]、[[真木野]]、[[平戸]]、[[小室]]などの諸村は[[千田泰胤]]の領するところとなり、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には[[北朝 (日本)|北朝]]方の[[千田氏|胤貞流千葉氏]]の勢力下に入って、さらにそれらの村々は[[千葉胤貞]]によって[[猶子]]である[[法華経寺|中山本妙寺]]の[[日祐]]に譲与された<ref>『中山法華経寺文書』 元徳3年9月4日付 千葉胤貞譲状など</ref>。この際、譲与された地域一帯が[[日蓮宗]]に改宗したとされる。また、臼井氏は[[鎌倉時代]]後半期の不振期を乗り越え、臼井祐胤の代に旧領を取り戻していき、南北朝時代の[[暦応]]元年([[1338年]])祐胤嫡男・臼井興胤の時に、北朝方の[[足利尊氏]]に参じて戦功をあげ本領を安堵された。そして[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[千葉氏]]の有力一族[[原氏]]が治めることとなった。
 
== 脚注 ==