「ヘン・サムリン」の版間の差分

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1978年人事を加筆
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[[1975年]]4月17日にプノンペンが陥落して[[ロン・ノル]]政権が崩壊した後、5月に東部地域軍は引き揚げたが、サムリンの所属する第1師団は首都に留まった。サムリンは3ヶ月間、[[ソン・セン]]の下で軍事問題を学び、「軍の編成および軍の強化」をレクチャーされた<ref name="Kiernan2008p95">Kiernan (2008), p.95.</ref>。しかし、7月の会議で第1師団は中央直轄の第170師団に再編され、サムリンは部隊を置いて一人で東部に帰還させられた<ref name="Kiernan2008p95" />。
 
[[1976年]]、東部地域軍第4師団長および政治委員に就任<ref>ナヤン・チャンダによれば、1977年9月のベトナム国境襲撃事件(タイニンの虐殺)を機に、「国道7号戦線」委員長に昇進したとされる<ref!--上官のソー・ピム誤りか?-->チャンダ(1999年)、334ページ。</ref>。しかし、1977年12月のベトナム軍による東部地域攻撃を防げず、中央の信頼を失うこととなった。後に東部地域軍参謀次長に任命
 
[[1978年]]5月18日、サムリンは[[ソー・ピム]]東部地域書記によりスオンの事務所に召還された<ref name="kiernan2008p394">Kiernan (2008), p.394.</ref>。ここで第4師団長を解任され、あらためて地域軍参謀次長に任命され、プレイベンの地域軍司令部に派遣された<ref name="kiernan2008p394" />。同5月、東部地域軍の師団長及び連隊長の多くが[[ケ・ポク]]中部地域書記により召喚・逮捕されており、サムリンは難を逃れることになった<ref name="kiernan2008p394" />。しかし、彼がプレイベンに到着した5月23日、弟の[[ヘン・タル]] (Heng Thal) 第290師団長と義兄弟のソス (Soth) 第21地区書記は逮捕され、[[S21 (トゥール・スレン)|S-21]]に送られた<ref name="kiernan2008p394" /><ref>別資料によれば、ヘン・タルの逮捕は4月とされている。チャンダ(1999年)、419ページ。</ref>。
[[1978年]]4月、サムリンの兄弟[[ヘン・タル]]第290師団長が逮捕され<ref>チャンダ(1999年)、419ページ。</ref>、5月24日には中央直属軍による東部地域制圧作戦が開始、[[ソー・ピム]]東部地域書記が自殺に追い込まれると<ref>ソ・ピムの最後については複数の説がある。チャンダ(1999年)、443ページ、原注(40)</ref>、1000人の忠実な部下を引き連れてジャングルに潜伏した。ゲリラ戦で抵抗したものの、間もなく[[ベトナム]]に逃亡した。
 
[[1978年]]4月、サムリンの兄弟[[ヘン・タル]]第290師団長が逮捕され<ref>チャンダ(1999年)、419ページ。</ref>、5月24日には中央直属軍による東部地域制圧作戦が開始され、[[ソー・ピム]]東部地域書記が自殺に追い込まれると<ref>ソ・ピムの最後については複数の説がある。チャンダ(1999年)、443ページ、原注(40)</ref>、ヘン・サムリンは1000人の忠実な部下を引き連れてジャングルに潜伏した。ゲリラ戦で抵抗したものの、間もなく[[ベトナム]]に逃亡した。
 
=== 親ベトナム政権の樹立 ===