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[[Image:Langley Aerodrome 02.JPG|thumb|200px|エアロドローム、モデルNo.6 ([[Wesley W. Posvar Hall]]にて展示)]]
 
エアロドローム(Aerodrome)は、[[1898年]]に5万[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]で[[アメリカ陸軍]]からの依頼によって[[サミュエル・ラングレー]]が開発した実験的航空機。 熱気球ではないタイプの飛行物体を開発する目的でプロジェクトは開始され、空気より重いものを飛ばすという目的は無人機で達成されたが、成功有人飛行に[[ライト兄弟]]よりも後であり、[[ライトフライヤー号]]を越えることは無かっ失敗した。
 
==概要==
5万ドルの合衆国軍事予算の交付金で組み立てられて、[[チャールズ・マンリー]](Charles M. Manly)によって操縦された実物大のAerodromeは、[[1903年]]10月7日、および同年12月8日に同様にテストされた。ちなみに12月8日のわずか9日後に、ライト兄弟が、[[キティホーク (ノースカロライナ州)|キティホーク]]([[ノースカロライナ州]])にて4回の試験飛行に成功している。この試みは両方とも、飛行できずにポトマック川に墜落している。尚、パイロットは無傷で救助されている。
 
エアロドロームは、53馬力と、1903年のライト兄弟の[[ガソリンエンジン]]のものの約4倍もの出力を持った[[マンリー・バルザーエンジン|エンジン]]を搭載していたが、ラングリーは適切に、機体の空力特性についての計算と、航空機の制御という問題に着目しなかった。ラングレーは機体それ自体が安定性を持っていれば、操縦者の技量とは関係無く飛行できるものと考えていた。これは操縦応答性を最優先し安定性を犠牲にした[[ライトフライヤー号]]とは全く逆のコンセプトであり、そして無惨な失敗となった。
 
そして、エアロドロームは実験後解体され、この実験が新聞と[[アメリカ合衆国議会]]で嘲笑の的となったことを知ったラングレーは追加試験を中止した。
 
==その後==
[[グレン・カーチス]]は、スミソニアンの承認をもって、大幅にエアロドロームを変更改造して、[[1914年]]にいくつかの短い飛行を成功させた。これは、航空機でのライト兄弟の特許を回避する試みの一部である。この機体はオリジナルから大幅な改造が加えられており、もはや別機と言えるものであった
 
これらの飛行に基づいて、スミソニアンは「飛行ができる」最初に空気より重い有人の、そして、動力付きの航空機として博物館にエアロドロームを展示した。 この行為は[[オービル・ライト]]([[ウィルバー・ライト]]は、1912年に死去)との不和の引き金となった。正しくない航空機の歴史を広める行為として、オービル・ライトは、スミソニアンを起訴した。そして、オリジナルのフライヤー号をスミソニアンに寄贈するのを拒否した。
 
スミソニアン協会が1914年の実験を否定し、オーヴィル・ライトに陳謝するのは、[[1942年]]の事であった。
 
==模型==