「カルメン・ミランダ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
38行目:
===批判===
 
アメリカ合衆国でミランダの人気が上昇し続ける一方、彼女はブラジル人の支持を失い始めた。[[1940年]][[7月10日]]、彼女はブラジルに帰国しファンの声援で歓迎されたが、彼女の到着直後、ブラジルのプレスはアメリカの商業主義に屈したミランダを非難し、ブラジルにとってマイナスのイメージを投げ掛け始めた。上流階級の人々は、彼女のイメージが“黒”と感じ、あるブラジルの新聞は“不味い黒サンバを唄う”と非難した。その他ブラジル人は、アメリカ到着時に受けたインタビューで“ラテンアメリカの女性”の固定誇張しているとし、非難した。[[ニューヨーク・ワールド・テレグラム]]によるインタビューにおいて、ミランダは当時の限られた[[英語]]の知識について話し、''“お金、お金、お金。私は英語で20単語しか話せない。お金、お金、お金、万歳!”''と言った<ref name=Ruiz>{{harv|Ruíz|2005|p=200}}</ref>。7月15日、彼女は“ブラジリアン・ファースト・レディー・ダルシ・バルガス”のチャリティ・コンサートに出演した。このコンサートは、ブラジルの上流階級が参加した。彼女は英語で聴衆を歓迎したが、沈黙した反応となった。ミランダが[[クラブ]]公演“ザ・サウスアメリカン・ウェイ”での1曲を歌い始めた際、聴衆は彼女をやじり始めた。彼女は舞台を終えようとしたが諦め、観客がやじり終えた後あと、ステージを後にした。この出来事はミランダを深く傷つけ、彼女は着替室で号泣した。翌日、ブラジル紙は“あまりにもアメリカ化されてしまった”と彼女を非難した<ref name=Ruiz />。数週間後の[[1940年]][[9月2日]]、ミランダは[[ポルトガル語]]の歌''“ Disseram QUE Voltei Americanizada”''(または“They Say I've Come Back Americanized”、<small>邦題:『アメリカかぶれしたと言われるけれど』</small>)を録音して批判に応じた。このような曲を唄わざるを得ないほど、当時の彼女に対する批判は凄まじかったと云うことなのだろう。彼女の唄いぶりも、フレーズを崩しながら独特の“ボサ”感覚を引き出そうとしてはいるものの、節回しに以前のような余裕が無く、聞き手とのコミュニケーションが取れないことが唄に影響を及ぼしていることがわかる<ref name="example">アルバム『サンバ黄金期の栄光 カルメン・ミランダ』([[1995年]][[5月31日]]発売)[[CD-DA|CD]]:品番TOCP-8571より。文章:[[田中勝則]]</ref>。別の歌である“バナナズ・イズ・マイ・ビジネス”は、彼女が出演した映画のあるくだりに基づいたもので、彼女のイメージを直接的に植えつけたものであった。彼女は自身への批判に激しく動揺し、14年間もブラジルへの帰国を避けたセッション以降、彼女はブラジルに於いて二度と録音を残すことはなかった<ref name="example">アルバム『サンバ黄金期の栄光 カルメン・ミランダ』([[1995年]][[5月31日]]発売)[[CD-DA|CD]]:品番TOCP-8571より。文章:[[田中勝則]]</ref>。この9月2日のミランダの映画は、その文化的に均一な[[中央アメリカ|中央]]・[[南アメリカ]]の特徴付けにおいて、ラテンアメリカの聴衆から厳しい眼差しを向けられていた。彼女の映画が[[中央アメリカ|中央]]・[[南アメリカ]]で上映された際、その映画はアメリカ人の先入観でラテンアメリカ文化を描写しており、実際とはかけ離れていると強く感じられた。多くのラテン系アメリカ人は彼らの文化が誤って伝えられており、また彼らの土地の出身であるカルメン・ミランダが、彼らのことを誤って伝えていると感じた。彼女の映画(ダウン・アルゼンチン・ウェイ(1940年))は、猛烈な批判を浴び、[[アルゼンチン]]の評論家はアルゼンチンの文化を描写できていないと述べた。映画中の歌詞はアルゼンチンとは関係ないテーマで唄われ、厳密にはアルゼンチンではなく寧ろ[[メキシコ]]、[[キューバ]]およびブラジル文化の融合であるとされた。“ブエノスアイレスでの生活を誤って描写している”ため、その映画はアルゼンチンにおけるその後の上映が禁止された <ref>Amanda Ellis, “Captivating a Country With Her Curves: Examining the Importance of Carmen Miranda’s Iconography in Creating National Identities.”(Masters Thesis, State University of New York at Buffalo, 2008), 31-33</ref>。ミランダのデビュー映画“ウィークエンド・イン・ハバナ”(1941)の後、同様な気運がキューバでも高まった。キューバの聴衆は、ミランダのキューバ女性の描写に立腹した。映画評論家は、リオから来た人間が[[ハバナ]]の女性を演じることは恐らくできないと主張した。更に、彼らは“映画でのミランダの踊りはキューバのものではない”と批判した。ミランダの演技に関しても議論が湧き、単にブラジル人文化とその他ラテン文化の混成しただけとされた。批評家は、他の彼女が出演した映画では、ラテンアメリカの直接的な象徴としてはブラジル人文化で十分であるという仮定の下、ラテンの地を誤って伝えている批評した<ref>Shari Roberts. “The Lady in the Tutti-Frutti Hat: Carmen Miranda, a Spectacle of Ethnicity,” Cinema Journal 32, no. 3 (1993): 6.</ref>。
 
===ピークの年===