「ヤーセル・アラファート」の版間の差分

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=== 死去 ===
アラファートには、軟禁状態となったころから健康不安の噂があった。また多数の敵を抱える状況から、シャロン首相は「アラファトは、ハマスのヤシン師と同様(イスラエルによって)暗殺されるかもしれない」と発言していた。アラファートは[[2004年]]10月10日に体調を崩し、10月15日のラマダン(断食月)入りの金曜礼拝では気分不良のために途中で退出して客人への対応もしなかった。10月19日にはエジプトから招かれた医師団が診察した。10月27日より嘔吐を繰り返すようになり、何度か意識を消失した。アラファートは、入院中に大統領府がイスラエル軍によって破壊され戻れなくなることを恐れていた。10月29日、体調の悪化を理由に治療のためヨルダン政府によりアンマン経由で[[フランス]]に移送されたが、脳出血のため昏睡状態に陥り、[[11月11日]]午前3時30分にパリ郊外クラマールのペルシー仏軍病院で死去した<ref name="CNN2013年12月4日">[http://www.cnn.co.jp/world/35040913.html CNN>日本語版>2013年12月4日>World>仏当局、アラファト氏の毒殺説否定 夫人は反論]</ref>。アラファートは生前に遺体を東エルサレムまたはその近郊に埋葬してほしいと希望していたが、東エルサレムを自国の不可分の領土としているイスラエル政府はこれを拒否したため、遺体はカイロに運ばれて国葬された後、11月12日にラマッラーにある議長府敷地内に埋葬された。
 
アラファートの死後、諸外国が期待していたパレスチナの意思統一は遅々として進まず、イスラエルとの紛争はその後も継続している。アラファートの死因に関しては毒殺疑惑があり、アラファトの妻ハ夫人がアラファートの遺品を[[アルジャジーラ]]に持ち込み、んだ。[[スイス]]の[[ローザンヌ研究所]]検査した結果、アラファートの遺品から高濃度の放射性物質[[ポロニウム210]]が検出されたことから、アラファトの妻が。スーハ夫人は毒殺説をの証拠であると主張しフランスの裁判所に刑事告訴した。パレスチナ自治政府はアラファートの死因究明のための遺体掘り返しと検体サンプルの採取を承認し、2012年11月27日、アラファートの墓を掘り返して遺体の検体を採取したこと、および、フランス、スイス、[[ロシア]]の科学捜査研究者が死因を鑑定すると公表し<ref>[http://www.cnn.co.jp/world/35024914.html CNN>日本語版>2012年11月27日>World>アラファト氏の遺体を掘り出し 毒殺説で死因鑑定へ]</ref><ref>[http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2913479/9906994?ctm_campaign=txt_topics AFP BBNews>日本語版>2012年11月27日>災害・事故・事件>毒殺疑惑で捜査、アラファト氏遺体からサンプル採取]</ref><ref name="wsj-jp-20121128-arafat">[http://jp.wsj.com/World/Europe/node_555131?mod=MostPopularBlock Wall Street Journal>日本語版>2012年11月28日>国際>欧州・中東>アラファト氏の死因調査で遺体を掘り起こす]</ref>、毒殺が確認された場合は[[国際刑事裁判所]](ICC)に提訴すると表明した<ref name="wsj-jp-20121128-arafat" />。12月にスイスの調査団は遺体の組織からポロニウム210が発見されたと発表したが、フランスの調査団は自然死であるという調査結果を発表した<ref name="CNN2013年12月4日"/>。
 
アラファートの死後も、諸外国が期待していたパレスチナの意思統一は遅々として進まず、パレスチナ内部およびイスラエルとの紛争はその後も継続している。
 
== 脚注 ==