「マーティン・ヴァン・ビューレン」の版間の差分

編集の要約なし
|successor8=[[トーマス・ジャクソン・オークレイ]]
}}
'''マーティン・ヴァン・ビューレン'''('''{{lang-|en-short|Martin Van Buren}}''', [[1782年]][[12月5日]] - [[1862年]][[7月24日]])は、[[アメリカ合衆国]]の第8代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]。大統領職の前には第8代[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]および第10代[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]を務めた。オールド・キンダーフックの愛称で呼ばれた。最初の[[アメリカ独立宣言|独立宣言]]署名後に生まれた大統領であり<ref>[http://www.hoover.nara.gov/exhibits/cottages/middleclass/vanburen.html NARA.gov<!--Bot-generated title-->], Martin Van Buren</ref>、最初の非[[アングロ・サクソン人|アングロ系]]家系出身であり、第1言語が[[英語]]でなかった([[オランダ語]]だった)大統領<ref>{{cite book |last=Sturgis |first=Amy H. |authorlink=Amy Sturgis |title=The Trail of Tears and Indian Removal |publisher=Greenwood Publishing Group |year=2007 |pages=93 |isbn=031333658X}}</ref>。[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の最初の主催者であった。
 
ヴァン・ビューレンは任期を1期で終えた3人目の大統領であった。[[アンドリュー・ジャクソン|ジャクソン]]内閣の国務長官と副大統領を務め、ニューヨーク州における[[ジャクソン流民主主義|ジャクソニアン・デモクラシー]]の組織構造を築き上げることにおいて重要人物であった。しかしながら大統領として彼は経済問題に悩まされ、その任期は[[1837年の恐慌]]で特徴付けられた。[[アルーストック戦争]]と[[キャロライン事件]]の間に、イギリスとその植民地であるカナダとの関係が緊張することが判明した。これらが直接彼の失敗であったか否かに関係なく、ヴァン・ビューレンは4年後に大統領の座から退くこととなる。一般投票の結果は僅差であったものの、選挙人投票が総崩れし、[[ウィリアム・ハリソン]]が大統領に当選した。1848年、ヴァン・ビューレンは[[自由土地党]]の大統領候補として出馬した。
82

回編集