「二本松持重」の版間の差分

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| 兄弟 = [[二本松満盛|満盛]]、'''持重'''、[[高玉家重]]
| 妻 =
| 子 = '''[[二本松政国|政国]]'''
| 特記事項 =
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== 生涯 ==
3代将軍・[[足利義満]]より「満」の字を賜った、二本松氏第2代当主・[[二本松満泰]](みつやす)の二男として生まれる。この時期の二本松氏の系譜については諸説有る。
 
[[元服]]に際して、4代将軍・[[足利義持]]の[[偏諱]]を受けて'''持重'''と名乗る(別名として父の1字を取った'''持泰'''(もちやす)の名も伝わる)。
兄の満盛が早世し(『積達館基考』では、満盛は生前に満泰から家督を譲られて当主になっていたとしている)、その遺児・徳万丸はまだ幼かったため、持重が二本松第5代当主となった。ところが成長した徳万丸が元服して政泰と名を改めると、持重に家督の返上を迫ったため争いとなり、敗れた政泰は二本松から逐われたが、[[安積郡]]高倉に逃れて別家・高倉氏を興し、持重と争い続けた(のちに政泰が勝利し、家督を得た可能性も指摘されている)。こうした内紛により二本松氏の勢力は15世紀後半以降さらに衰えることとなった。
 
兄の[[二本松満盛|満盛]](みつもり)が早世し(『積達館基考』では、満盛は生前に満泰から家督を譲られて当主になっていたとしている)、その遺児・徳万丸はまだ幼かったため、持重が二本松第5代当主となった。ところが成長した徳万丸が元服して8代将軍・[[足利義政]]の[[偏諱]]を受けて[[二本松政泰|政泰]](まさやす)と名を改めると、持重に家督の返上を迫ったため争いとなり、敗れた政泰は二本松から逐われたが、[[安積郡]]高倉に逃れて別家・高倉氏を興し、持重と争い続けた(のちに政泰が勝利し、家督を得た可能性も指摘されている)。こうした内紛により二本松氏の勢力は15世紀後半以降さらに衰えることとなった。
[[長禄]]4年([[1460年]])4月には、将軍・[[足利義政]]から、[[古河公方]]・[[足利成氏]]討伐への参加を命じる御内書を下されている。
 
[[長禄]]4年([[1460年]])4月には、将軍・[[足利義政]]から、[[古河公方]]・[[足利成氏]]討伐への参加を命じる御内書を下されている。
 
[[文明 (日本)|文明]]2年([[1470年]])2月16日死去。嫡男・[[二本松政国]]が家督を相続した。