「ニコラ=ルイ・ド・ラカーユ」の版間の差分

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== 人物 ==
科学に興味を持ち、[[ジャック・カッシーニ]]の援助により職を得る。最初は[[ナント]]-[[バイヨンヌ]]間の海岸沿いの[[測量]]に従事し、その後[[1739年]]にフランスの[[子午線弧]]長の再測定を行った。カッシーニが[[1718年]]に発表した不正確な結果を改定することとなった、2年という期間を要したこの困難な仕事の成功には、彼の技能によるところが大きい。この仕事が[[科学アカデミー (フランス)|フランス科学アカデミー]]に認められるところとなり、アカデミー委員と{{仮リンク|コレージュ・マザ大学|en|Collège des Quatre-Nations}}の数学教授に任命される。その後南天観測の希望を申し出て、[[1751年]]から[[1752年]](観測期間は諸説あり)まで、[[喜望峰]]([[ケープタウン]])に滞在し、南天の約10,000の[[恒星]](42の[[星雲]]を含む)を観測した。1756年に約2,000の恒星のカタログと、それを記した星図を作成した(フランス語)。そこで、のちに標準的に使われるようになった南天の14の新しい[[星座]]を設定した。このカタログの改訂版と星図は、彼の没後の[[1763年]]に発刊された著名な ''Coelum Australe Stelliferum'' にも収録された(ラテン語)。星図は 『[[フラムスティード天球図譜]]』 にも採録されている。ラカーユが観測した全ての恒星を含む完全なカタログは、19世紀になってからイギリスの[[フランシス・ベイリー]]によってなされた。
 
== ラカーユが設定した星座 ==