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'''杉 隆泰'''(すぎ たかやす、[[大永]]5年([[1525年]]) - [[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[大内氏]]の家臣。父は[[杉貞泰]](さだやす、法名は宗珊(そうさく))、子に[[杉鎮頼]](しげより)。[[周防国]][[鞍掛山城]]主。
 
鞍掛杉氏は[[応永]]6年([[1399年]])に[[足利将軍家]]と大内氏から、周防[[玖珂郡]]を拝領した一族であった。杉隆泰は、平時は山口に出仕して大内氏の領国統治に従事し、所領の玖珂郡は影響下の[[国人]]衆に統治を委任していた。尚、[[諱]]の「隆」の字は主君の[[大内義隆]]から[[偏諱]]を賜ったものである
 
[[天文 (元号)|天文]]24年(1555年、弘治元年)の[[厳島の戦い]]の後、[[毛利元就]]が周防国東部へ進出し、玖珂郡への侵攻を開始すると、隆泰はその矢面に立たされた。最初は[[毛利氏]]に臣従したものの、近隣の[[蓮華山城]]主[[椙杜隆康]]との関係もあり、毛利氏の攻撃を受けた。隆泰は居城の鞍掛山城に籠っていた際に奇襲に遭い、防戦に努めるも、ついに鞍掛山城は落城。隆泰は父の宗珊ともども討死した(鞍掛合戦)。享年31。法名は鐵真院殿享安元樹大居士。墓は鞍掛山城の麓、祥雲寺。
 
嫡子は逃亡し、[[豊後国]]の戦国大名[[大友義鎮]](宗麟、[[大内義長]]の実兄)に仕え、その[[一字拝領|一字を拝領]]して[[杉鎮頼]]と名乗った。
 
== 関連項目 ==
*[[杉氏]]
*[[防長経略]]